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85 帰郷


 王都の城壁を抜けたのは、日没の鐘が鳴って閉門となる直前だった。

 あえて夜闇に紛れるギリギリの時間を狙ったのか。私達が通り抜けてすぐに大きな門が閉まる音を聞いた。城壁をくぐる前でランス領から護衛してくれていた衛兵とは別れていたので、大通りを走るのは最初に王都を出た時と同じ構成の私達のみ。 

 夜の闇に沈みいく街を見ても、懐かしい、とは思わなかった。メル爺の屋敷に保護してもらっていた時を除けば、城から出たことなど片手にも満たない私にはこの景色も珍しいものでしかない。

 それでも生い茂る木々の奥、広い道を抜けた先に聳え立つ生まれ育った城の姿を見れば込み上げてくるものがある。


(帰ってきたんだ)


 じわじわと胸に迫るのは、安堵より焦燥の方が強い。

 城内に入り、しばらくゆっくりと進んだ馬車は皇太子宮のすぐ傍らで止まる。先触れに出ていたニコラスが兄の家令達と共に入り口間際で佇んでいるのが見えた。

 ここにきてようやく、現実が目前まで迫ってきたように感じられた。

 実のところ、これまではまだ夢の中にいるような感覚を引きずっていた。だって私の首はまだ繋がっているし、兄も以前と変わらず優しい。普段とは違う場所にいたこともあり、自分を取り巻くすべての現実味が薄かった。

 けれどこうして見慣れた景色を前にすれば、急速に現実が押し寄せてくるかのよう。


「どうぞ」


 馬車を降りる時に差し出された手に、躊躇いそうになる手を叱咤して重ねる。自分でもわかるほど冷たくなっている指を硬い掌で包み込まれると、心臓が壊れそうに叩く速度を上げた。

 周囲は灯りがあっても既に暗く、薄いベールがかった帽子を被っているから顔は合わせなくていいとはいえ緊張しないわけじゃない。指先まで神経を集中させて、震えを抑えるだけで精一杯。

 そして体が強張るのは、けして手を差し出した相手がクライブだから、というだけじゃない。

 意を決して足を踏み出すと、ふわりと長いスカートの裾が揺れた。

 侍女服と違い、一歩進む度に重なった軽い素材の布地が空気を孕んで広がる。それが自分の足回りに纏わりついているという現実に眩暈がしそう。履き慣れない靴底から地面に降り立つ振動が伝わると反射的に足が竦んだ。


「おいで」


 呪縛を解すように、先に降り立っていた兄が手を差し出した。それまで支えてくれていた手から離れると言いしれない不安に襲われる。

 触れれば緊張する癖に、なんて天邪鬼。

 不安に背を押されるまま、兄の手に己の手を乗せる。いつもは子供のように繋がれる手が、今ばかりはエスコートする体を保っていた。恭しく手を引かれ、ゆっくりと歩き出す。入り口までのたった数歩の距離、それがやけに長く感じられる。

 迎える人は最低限に絞られているようで、私を伴った兄を見ても誰も騒ぎ立てることもない。事前に、兄の離宮にはそれほど人が多くないとは聞いていた。騒ぎ立てるような者も使っていないとは言われていたとはいえ、それでも気が抜けるわけじゃない。

 ドクン、ドクン、と全身が心臓になったみたい。いま話しかけられても、自分の心音が邪魔でちゃんと聞こえる気がしない。

 宮の中に入ると兄は二言三言、家令に何か告げていた。その後で兄に連れていかれたのは奥まった場所にある応接室だった。

 その案内された部屋の中、見知った姿を見つけて息を呑む。


「メル爺!」


 扉が開く前にソファから立ち上がっていた相手が振り返り、私を見て驚いた顔をした。

 実際合わなかった日数以上に、久しぶりに顔を合わせる気がする。顔を見られただけで一気に安堵が押し寄せてくる。兄の手を離し、メリッサもクライブも部屋にいるのに咄嗟に駆け寄りかけた。

 だけどそれはほんの数歩で、メル爺に手が届く前に止まる。


(どんな顔をすればいいの)


 いったいどの面下げて、この人に駆け寄れるというの。


「アルフェンルート様?」


 その場で固まってしまった私を見つめ、メル爺が困惑を滲ませた声で私を呼ぶ。

 いつも私には優しい声。

 危ないことをすれば叱られることもあったし、怖い顔もするけれど、騎士達を説教する時のように大きく声を荒げることはなかった。当然、手を上げられたこともない。

 私の体が弱いことにして、外に出ないで済むように守ってくれた。『医師のくせに治すことも出来ないのか』と責められている声を聞いてしまったこともある。だけど自分の自尊心を踏み躙られても、私が弱いということを貫いた。

 本当は皇子を装わせるのなら、剣だって教えるべきだった。乗馬だって、習わせるべきだった。

 けれど皇女がすべきではないと思うことからは、徹底的に遠ざけてくれていた。私だって、本当は剣くらい習った方が良いのではないのかと言ったことはある。だけどメル爺は頑として頷かなかった。

 私が剣を手に取らずとも、メル爺が私の剣になると言ってくれた。

 ただ一人、私を皇女として扱ってくれていた。

 私は、この人を。


(…………切り捨てようとしてたのに)


 これまで押し込めていた現実が堰を切って雪崩れ込んでくる。自分の選択が今頃になって圧し掛かる。

 メル爺がここにいるということは、あらかた何があったのかは兄から伝えて聞いているだろう。

 メル爺は、私の判断に任せると言ってくれた。私のことが露見したとしても、自分には過去の功績があるから一族を巻き込むことなく、己が首一つでどうにかなるから、と。

 そんなもの、メル爺が私を安心させるための嘘であることぐらいわかっていた。いくら私でも、それで済まされるなんて思ってない。それでも騙されたフリをした。何もわかっていないフリをした。

 そして、兄に私が女であると告げようとした、あの時。

 私はメル爺の言葉を信じたフリをして、切り捨てた──。

 結果として、兄の恩情で今なんとか薄皮一枚で首が繋がっているというだけのこと。切り捨てようとした事実は覆らない。

 本当は、私の選択で失うことになるはずだった人。


(一度は切り捨てようとした私が、甘えることなんて出来ない)


 出来ないんだ。

 間を遮るヴェールが邪魔で、被っていた帽子を脱ぐ。奥歯を強く噛み締めて顔を上げた。

 泣く権利なんてないのに、目頭が熱い。必死に目に力を入れていないと勝手に溢れてほしくないものが零れていきそう。おかげで目の前に立つメル爺の表情が、見ているようで見えない。

 メル爺、私は。


「私は、メル爺を、切り捨てる気でいました」

「!」


 絞り出すように告げた声は低くて、まるで自分の声じゃないみたいだった。

 目の前で息を呑むのが聞こえて、次いで責められる言葉を受けるために全身に力を入れる。それだけの選択を私はした。

 時間を巻き戻せても、あのときの私はメリッサとセインを選ぶだろう。

 誰を助けられるか。

 誰が残るべきか。

 少しでも生き残れる確率が高い方を。

 出来るだけ未来がある方を。

 実際、どれだけ考えても助けられる可能性があるのはあの二人だけだった。

 ……そんな言い訳をして、本音を押し隠した。


(本当は──メル爺は、道連れにする気でいたの)


 死んでも何も残らない。そんなこと嫌というほど知ってる。結局、人は死ぬときは一人だし、死んでも一人だ。否、『自分』すら本当なら残ることはない。だけど。

 それでも。


(せめて最期までは、誰かに一緒にいてほしかった)


 それをメル爺なら許してくれんじゃないかって、甘えが出てしまった。

 私が守らなければならない人の中でも、メル爺は私を守ってくれる人だった。

 寂しい時には抱き上げてくれた。拗ねれば、綺麗な菓子を用意して宥めてくれた。不安で眠れない夜には、メル爺が紛れ込ませていた少女向けの本を読み聞かせてくれた。時折メアリーが見ていないところでは、庭に咲いていたと言っては武骨な手で綺麗な花を私の髪に飾った。

 この城の中で唯一、出来る限り私を女の子として扱ってくれていた人。

 血の繋がった祖父より私の身を案じ、孫娘のように想ってくれていた人。 


(私の、おじいさま)


 実の祖父よりもずっと、祖父だと思って慕ってきた人──。

 大事だった。大切だった。大好きだった。

 だからこそ助けたいと心の底から願うその片隅で、甘えてしまう心が殺せなかった。メル爺にはちゃんとメル爺の家族がいて、私だけの家族ではないとわかっていたのに。

 私は、なんて傲慢なの。


「わざと自分を傷つけるような言葉を使われなくてもよろしい」


 ぐっと両足を踏み締めて覚悟していた私に降ってきたのは、そんな言葉だった。


「アルフェンルート様が好き好んで切り捨てたと思うほど、耄碌はしておりませんぞ」


 大きく溜息を吐き出され、俯いてしまっていた私の目線に合わせるためにメル爺が片膝を着いた。覗き込んでくる顔は怒る時のように厳しい表情。


「さぞかし悩まれたでしょう。嘆かれたでしょう。アルフェンルート様のことですからな、私らがどれほど止めていようともあの二人の為にご自分の首も懸けられたはず」

「……っ」


 けれど私を覗き込むその目は、少し赤い。


「誰がお育てしたと思っておるのですか。アルフェンルート様の考えそうなことぐらい、手に取るようにわかりますわい」


 拳になっていた手を取られ、引かれる力に抗えずにメル爺に凭れかかる形になる。背中に回った掌が宥めるように軽く叩く。

 それだけで耐えていた熱いものが溢れ出す。食い縛った歯の合間から情けない嗚咽が漏れそうになるのを堪えるだけが精々。


「ごめんなさい……っ」


 私は泣き虫なんかではなかったのに。どちらかといえば、耐えるのは得意だったはずなのに。一度壊れてしまった涙腺は思うようにコントロールがきかない。


「アルフェンルート様がお生まれになった時、あれほど傍にいながらお守りできなかったのは私の咎。爺が供をするのは当然のこと。むしろ、置いていくおつもりであれば怒り狂って追いかけていたところですな」


 茶化す口調だけど、本気で言っているのがわかる。

 だから気に病むな、とあやす掌が語りかけてくるかのようだった。





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