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84 思春期は難しい


 ゆらゆらと体が浮遊感に包まれている。それでいて、温かくて安定感のあるものが体を支えてくれているのを感じて不安もない。


(これ、知ってる)


 ひどく懐かしく、ほっとする。

 幼い頃、メル爺は医務室の勤務が終わると必ず顔を出した。だいたい私の夕食と入浴が終わった頃で、メアリーが部屋を片付けている間にメル爺が相手をしてくれていた。このときにメリッサが傍にいた覚えがないので、幼いメリッサは既に自室に下がって休んでいたのだろう。

 夜になると皆下がってしまうのが嫌で、なかなか眠らない私の寝かしつけをメル爺が担当していたのだと思う。

 男の人がそんなことをするのはとても珍しいと思うけど、メル爺はああ見えて子どもが好きなようだった。疲れているはずなのに嫌な顔をすることなく、いつも私を膝に乗せて本を読み聞かせた。

 腕の中はあたたかくて、頼もしくて、大好きだった。メル爺に染みついた薬草の匂いも、私にとっては落ち着く香り。ゆっくりページを捲る武骨で大きな手がかさついていたのを、今もよく覚えてる。低い声で語られるのが子守歌のようで、うとうとと襲い来る眠気と戦うのが日課だった。

 それでもいつも眠気に負けてしまって、気づけばベッドの中で朝を迎えていた。

 だけど時折、まどろみに落ちる前に体が掬い上げられる感覚があった。私が眠ったと判断したメル爺がベッドに運んでくれる。

 ゆらゆら。ふわふわ。全身で感じる浮遊感が心地よくて、その瞬間が一番好き。

 ベッドに下ろされるのが嫌で、咄嗟に袖を掴んで引き留める。力なんてほとんど入ってない。でも、まだ駄目。もう少し。だってまだ、ねむくない。お話のつづきが気になる。今日の本は、なんだったっけ……


「メルじ、っぃぎゃあ!」


 懐かしい記憶に飲み込まれていたせいで、一瞬自分の置かれている現実が理解できなかった。瞼を持ち上げたらそこに予想と違う顔があって、思わず変な声が出た。

 叫ばれた側も驚きに目を瞠っていて、同じように目を瞠って固まった私を見て一つ息を吐く。


「なんて声を出すんだ」

「申し訳ありません」


 ぃぎゃあって。怪獣か。女である前に、人間すらやめた声を出してしまった。

 だってメル爺だと思っていたのに、目を開けたら真ん前に兄の顔があるなんて思わないでしょう!?

 慌てて半身を起こして首を巡らせれば、自分の体は見慣れない部屋のベッドの上にあった。兄の後ろにはちゃんとメリッサも控えている。

 なぜ私はこんな状態に。


「私は寝てしまっていたのですか」


 寝起きで混乱する頭を必死に叩き起こす。

 確か今朝ランス領を出て、兄と話をして、昼の休憩にニコラスと黒歴史の勉強して、それから戻ってきた兄がセインの名前を持ち出した。

 そうだ。なぜ兄がセインを動かしているのか。

 そう問い詰めた私を、「一度に詰め込める話じゃない。顔色も悪い。今は休んでおけ」と言われて教えてもらえなかった。あれから兄は黙ってしまったし、不安しかなかったものの戻ってきたメリッサに飲み物を渡されて、それを飲んでからの記憶がない。

 心を落ち着かせる香りの飲物だったから、病み上がりの上、精神疲労が尋常じゃなかったのでそれが誘引剤となって眠ってしまったのだろう。メリッサが私の様子を見かねて、それを狙って飲ませたとも思える。

 しかしこの状況から鑑みるに、寝ている私を運んだのは兄ということになる。恐れ多すぎて嫌な汗が滲む。けれど失態に顔を引き攣らせる私とは反対に兄は涼しい顔をしていて、気にしている様子もない。


「寝ていろと言ったのは私だ。気にしなくていい」


 気にします。居た堪れないです。


(兄様は私を妹扱いしてるというより、まだ小さな子どもだと思っていそう)


 兄の中では、私は幼い頃のまま時間が止まっているんだろうか。それだけ私が頼りないということなのだろうけど、中身が純粋に子どもとは言えないので複雑ではある。

 それはともかくとして。もう城に着いたのかと思ったけれど、それにしては見覚えのない内装だった。ベッドが二つ置いてある部屋は狭く、しかし寝室というより宿屋のような。


「ここはどこなのですか」

「宿だ。この人数だとさすがに一日で移動とはいかない。今夜はここで一泊して、城に着くのは明日になる」


 言われるままに窓の外に目を向ければ、赤い夕焼けが今にも夜に飲み込まれそうな装い。外からは衛兵の声が聞こえてくるので、宿に入りきらない人たちは野営でもするんだろうか。となると、そこまで大きな町ではないのかもしれない。


(明日には、城に帰る)


 そこでふと、思い出した。


「そういえば兄様から頂いた服ですが、あれはいったいどういうおつもりだったのですか」

「気に入らなかったか?」


 兄が私を見下ろして首を傾げる。いや、気に入るとか気に入らないとか、そういう問題じゃないのだけど。

 私がドレスを纏うのは死を賜る時だと思っていた。昔メアリーに言われた言葉は胸の奥に突き刺さっていて、意味もわからず着る勇気を私は持てない。

 口をへの字に曲げた私の心の内を読んだのか、兄が少しだけ淋しそうに眉尻を下げた。


「城に戻るとはいえ、まだアルフェを自室に戻すのは不安がある。しばらく私の宮で預かるつもりでいるが、一応念を入れてドレスを着せていればアルフェだと思われないだろう。それに私が許嫁候補でも連れてきたのだと周りが勝手に勘違いするかと思ってな」


 周りの意識がそちらに向けば、水面下で動いている話から目を退けられる、ってことを狙っているのだろうか。

 寝起きのせいだけでなく、私の頭は既に飽和状態なのでうまく動いてくれない。説明されて「そういうことだったのですね」と頷いてみせたけど実のところよくわかっていない。


「だがアルフェが着るのが苦痛だと言うのなら、無理強いはしない。あれは念の為であって、どうせアルフェは本さえあれば部屋から出ないでも平気だろう?」


 引き籠りオタク体質であることを見抜かれているのが複雑だけど、その通りなので深く頷く。

 それを見て兄は少し呆れを滲ませたけれど、ふと何か思い出したように「少し待っていろ」と言って部屋から出ていった。そこで私も、思い出す。


「メリッサ。兄様から預かっていた鞄、出してくれる?」


 控えていたメリッサに思い出したことを告げる。

 けして忘れていたわけじゃないけど、兄から預かっていたショルダー型の財布を返しそびれたままだった。ランス領で買った本はクライブが兄に渡してくれたけど、財布は渡しそびれていた。中に入ったお釣りごと手元にある。

 それをメリッサから受け取ったところで、兄が再び部屋へと戻ってきた。今度こそ忘れる前に、兄に財布を差し出す。


「長らくお預かりしていて申し訳ありません。お釣りは入ったままなので、ご確認ください」


 差し出した私を見て、兄が怪訝そうに首を傾げる。受け取らない兄に対し、私も首を傾げる。


「それはアルフェにやったものだ。遣いに出した駄賃変わりだから返す必要はない」


 そう言われて、一瞬ぽかんと呆けた顔になってしまった。

 駄賃が金貨1枚って、おかしいでしょう!? 本は数冊買ったけど、たかがお遣いで日本円にして日給10万円はおかしい。いったいどこのセレブなの!? セレブと言えば間違いなくセレブなのだけど!


「こんな大金いただけません」

「私から見ればそこまで言うほどの額ではない。アルフェから見てもそこまでの額じゃない。アルフェが使っているカフス一つすら平民から見れば一財産だ」


 思わずカフスを確認してしまう。

 サファイアのシンプルなものだけど、そういえば以前、王都に降りた時に持ち合わせがなくてセインに代金代わりに渡そうとしたら引き攣った顔をさせた。そんな価値があったの。宝石には興味ないから考えもしなかった。


「とにかく、持っていて困るものでもない。お忍びで出かけた時に欲しいものだってあるだろう」


 この先、私がお忍びでどこかに出かけるということが想像できないけど。しかしここで強引に返すのも好意を跳ねのける形になってしまう。仕方なく、この場は受け取っておくことにした。


「ありがとうございます」


 兄は満足そうに頷き、次いで手に持ってきた物を私に差し出した。

 兄には不似合いの、少々煤汚れているけれど、淡いピンクの表紙に花の描かれた安っぽい装丁の文庫サイズの本。


「これはアルフェの分だろう?」


 見覚えのある本だった。

 私がランス領の本屋で買った本の内の、1冊。どうやら燃えていなかったらしい。

 それを私の分、と言われたことにギクリと心臓が竦んだ。

 これはマズイ。とても気まずい。だってこれ、どう見ても女性向け。しかもいかにも恋愛小説って感じのデザインとタイトル。

 それを自分が欲しくて買ったと見抜かれていたことに、羞恥でのたうち回りそう。心臓がドクドクと急激に脈打ち出す。恥ずかしくて兄の顔が見られない。耳まで熱い。無意識に握りしめた掌の中に冷たい汗が滲む。

 多分これが、母親にエロ本が見つかってしまったときの思春期男子の気持ちッ!


「これは、ですね。女性の間で流行っていると言われたので、兄様が、女性の心を学ばれるのに良いのではないかと、思って、買いました」


 声が上擦り、言い訳がしどろもどろになってしまった。

 でも、そう思ったのは本当。ただそのついでに後で私にも貸してもらえないかな、という下心はあった。むしろ下心しかなかったけど、改めてそれを突き付けられると気まずくて息がし辛い。

 顔を上げることも出来ずに苦しい言い訳をした私の頭上に、「そうか」と淡々とした兄の声が落ちる。


「そういうことなら、私は読み終わったので処分していいな」

「あっ!」


 目の前で本がすいっと引かれて、反射的に手を伸ばしていた。本の端をしかと両手で掴んで引き留めてしまってから、我に返る。


(しまったッ)


 私はなぜこの手の欲望に弱いのか。いや、だって、処分するなんて言うから。というか、私はこんなことをしている場合ではないと言うのに。だいたい読む余裕なんてないのに、いったい何をしているの。

 それでも出してしまった手を今更引っ込めたとしても遅い。固まった体勢のまま恐る恐る顔を上げて兄を見ると、呆れているのを隠しもしない兄と目が合った。


「最初から素直に受け取ればいいだろう」


 兄が本を持っていた手を離した。私の手にだけ残った本は、薄いくせにやけに重さを感じさせる。

 そう言われても、男として育てられた私がそういう本を読みたがっていると思われるのは、やっぱり居た堪れない。無性に恥ずかしい。自分が守ってきたものを自分で崩してしまったという罪悪感もある。素直に手を伸ばすのは、悪いことのように思えた。

 伸ばしてしまったけれど。馬鹿正直に、欲望に忠実に、掴んでしまったけれど。


「……しかしアルフェも、人並みにそういうものを好むのだな」


 ぽつりと呟かれた声は、私に言っているというよりも自分に言い聞かせているかのようだった。

 中を確認したわけではないからまだ好みかどうかはわからないけれど、ここは下手に突っ込まないでおく。だけど一点だけ、どうしても気になることがある。


「兄様は読んでみて、面白かったですか?」

「勉強にはなった」


 兄はちょっとだけ苦笑して答えた。誤魔化すように私の頭をやや乱暴に撫でる。たぶん好みじゃなかったんだろうけど、ちゃんと読んだあたり律儀だと思う。

 でもいつかこの兄も、物語かと思えるような恋をする日がくるんだろう。それが私の知っているゲームのヒロインになるかどうかは、わからないけど。


「眠くないかもしれないが、食事を取ったら早めに休め」

「はい」


 ぼんやりと兄を見つめていた私をみて調子が思わしくないと思ったのか、兄はそう言いおくと踵を返した。メリッサに「アルフェは頼んだ」と言い置き、部屋の扉に手を掛ける。

 そこで何か思い出したように足を止め、振り返った。


「そういえば、アルフェ。狼はな、猫とは呼べない」

「はい?」

「狼は百歩譲って、犬だ」

「はい」


 兄が何を言いたいのかさっぱりわからないけど、あまりにも真剣に言われるので頷いた。狼はイヌ科イヌ属ですよね。知ってます。

 兄が出て行ってからしばらくしてから、意味のわからないセリフを反芻してその比喩に気づいてしまった気がしたけれど。

 否! 私は何も気づかなかった!



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