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4 ……せ、

 何分経ったのだろう。

 まだ他の生徒が現れないところを見ると、ほんの数分か、長くても10分位だろうか。

 俺は大分落ち着き、涙も止まっていた。


 が。しかし。


 井上の胸から顔を上げることが出来ない……!

 こ、この現状っ。ありえん……!

 おそらく顔を上げた瞬間井上から再び「どうした?」との理由説明を求められるであろうが、あの電車内でのおぞましい出来事を井上に話すとか……なんかすごく嫌だし。泣いてる顔とか弱ってる姿を見られてしまったことも……すごく居たたまれない。


 しかし、しかし俺は今、現在進行形で井上の胸に顔を埋め背中を撫でられているっ。井上への説明を回避するのは限りなく不可能に近い。

 ううう。こ、こうなったら、隙を見て、逃げる! しか、ない!


 俺は意を決して井上の胸から顔を上げた。

 俺の顔を覗き込む井上と、目が合った。井上はひどく穏やかに微笑んで、優しい声音で口を開いた。


「もう、大丈夫か? 涙」

「う、うん。ありがとう。ゴメン、シャツ、濡れた……」

「いいよ。全然」


 井上はいつもみたいにからかってきたりしない。ホント、相手のことをよく見て空気を読む奴だ。今はそれがすごく有難いな……根が優しいんだな、井上は。


「それで一体、どうしたんだ……?」


 ううう。でもやっぱり、その質問はくるんだな。そりゃそうか。俺が逆の立場でもそーするし。


「別に、大したことじゃ、ないから。気にすんな」

「大したことないわけねぇだろ。嘘つくな」

「いや、ホントに、」

「五十嵐っ」


 俺はジタバタと井上から離れようともがき出したが、井上も譲れないらしく、俺の両肩を掴んで離してくれない。俺が理由をきちんと説明するまで逃がさないつもりらしい。


 ……やっぱり、そう、くるんだな。なら、仕方ない。

俺は後ろめたげに井上から視線を背けながら、口を開いた。


「…………せ、」

「…………せ?」

「…………せ、生理痛、だ!!」


 俺は顔を上げて真っ赤になりながら、万国共通で男子がそれ以上踏み込んでこなさそうな台詞を大音量でブチかました。案の定、両肩を掴んでいた井上の手の力が一瞬緩んだ隙にクルリと踵を返し、そこからダッシュで逃亡を図った。


 後ろから井上の「ちょ……待てよ!」という、どこかの国民的アイドルが演じた弁護士のような台詞が聞こえてきたが、俺はとにかく全速力で走った。

 体育館を飛び出して校舎に入り、とにかく階段を上へ上へと登っていく。目的地など定めてない。ただ井上から、逃げたかっただけだ。


 一番上の踊り場に着いてしまい、それ以上どこにも行けなくなってしまったので、俺はようやく足を止めた。


 ハァ、ハァ、ハァ……


 俺は床にしゃがみ込んだ。

 ここまで来れば、安心だよな……

 俺が気を抜きかけた時だった。


 グワシッ!

「ひえっ!」


 突然後頭部を結構な力で掴まれ、振り返ると、そこには振り切ったと思っていたら振り切れていなかったらしい、井上の姿が。ちょ……、バスケ部男子の握力は凶器ですから!


「井上、痛い痛い痛い!」

「てめぇ。無駄に高い走力かましやがって。何度も予想を超える動きをするんじゃねぇ、コラ。ちゃんと! 泣いていた理由を説明しろ」

「だ、だから、せ……」

「だとしたら、こんな全力疾走かませるわけないよな? あと俺、姉貴二人に揉まれて育って女子耐性強いからね? その単語で俺がひるむと思うなよ?」


 井上はこめかみに怒りマークを浮かべながら、ニッコリと笑った。こ、怖え。

 これ以上はぐらかすのは得策ではないようだ……俺は観念して、ポツリポツリと語りだした。


「今朝、電車で、座ってたら、隣に座ってた男の人に……足、触られて。どうしたらいいか、わかんなくて。駅で一緒に降りていいか、みたいなこと言われて、付いてこられたらどうしようって、怖くて、怖くて……。電車飛び降りてから学校まで、ずっと走って。一人だったところに井上が来たから……なんか、気が緩んだら、涙が止まらなくなって……」


 ゴメン、と俺が続けようと思うより早く、井上が俺をギュウッ、と抱き寄せた! ええ!?


「お前という奴は……お馬鹿さんかっ!!」


 なんで!?


「そういうことは早く言え! 凄く怖い思いしたんだろ? 傷ついたんだろ? そういう時は周りに甘えていいんだぞ。無理に強がったり一人で抱えようとしたりするなっ」


 井上の口調は怒っているのに、響きはとても温かくて……俺はなんだか再び目頭がじわり、と熱くなるのを感じた。


「だって俺……いつもお前に『負けねー』とか言ってるのに、こんな、ちょっと足触られたくらいで逃げるとか、泣くとか、カッコ悪い、と思ったから……だから……」

「あのな、」


 井上は俺を抱き寄せていた体を離し、俺の両肩に手を乗せて、井上を見上げる俺の瞳を正面から、穏やかに見つめた。


「 お前は普通の女の子なんだぞ、五十嵐。痴漢に遭遇したら怖がったり、逃げ出したり、涙が出たりしても、いいんだぞ? むしろそれが当たり前だし、カッコ悪いなんて俺は全く思わない。……お前はどうしていつもそう、ムキになって男と肩を並べたがる? 何でそんなに自分を女扱いするのを嫌がるんだ?」


 俺は頭の中で井上の台詞を反芻はんすうした。

 どうしてそうムキになって男と肩を並べたがるのか。

 なぜ自分を女扱いするのを嫌がるのか。

 それは……





 俺はいつかのように再び、脳裏に小学生の時の記憶を思い起こした。小学五年生の一学期初日……俺と洋海ひろみが、初めて会った日、だ。


「よろしくな、洋海」

「よろしくね、北斗」


 その時俺は、へへへっと笑顔を浮かべながら、洋海に向かって右手を差し出して。洋海は少し照れたように微笑みながら、俺の右手を握り返して。

 柔らかくて、温かい、小さな手だった。俺はその手の温もりが、今でも大事で。ずっと、繋いでいたくて。


 でもでも、繋いだ手の感触が、年ごとにどんどん変化してしまうから。その変化が俺と洋海の距離を離してしまうようで。俺はそれが恐かった。洋海の隣に屈託なく居られる自分でいることを守りたくて……抗っていた。自分がどんどん女に変化していくという、本来ひどく自然な、成長という変化に。俺は。抗っていたのだ。





「……自分が女子らしくなっちまったら、もう洋海の隣に居られなくなるんじゃないかと思って……」

「ヒロミ……?」

「小五から、いつも一緒に過ごしてきた、俺の幼馴染」

「そいつが男、なんだな?」


 俺はこくん、と頷いた。


 井上はこめかみをぐりぐりと揉みながら、目を閉じてブツブツと何やら唱えていたが、やがてハァー……、と盛大なため息をついた。


「色々とこじらせやがって……お前という奴は……マジでお馬鹿さんか」


 なんで!?

 なんかもう過去最高に上から呆れられているようだが……気のせいだろうか。


「逆にお前は、そいつが男だからもう一緒に居たくない、とか思うのか? そいつが女だったらよかったのに、とか思ってるか? 違うだろ? 五十嵐はヒロミ君自身が好きで一緒に居たんだろ。だったら性別の違いが理由で距離が離れるなんてことは無いはずだろ? ヒロミ君も五十嵐のことそういう風に思ってるんじゃねーのか」


 俺は、衝撃を受けて固まった。

 確かにそう、だ。

 俺はどんどん男子らしく変化する洋海を見ても一緒に居たくないなんて思った事ないし、洋海が女だったらなんて、考えた事もない。結局、どんなに姿形が変化したって、俺が洋海自身を好きな事や隣に居たいって気持ちは変わらないんだ。

 だからただありのままの自分でよかったんだ。変化していく事が自然なら、変化した姿で隣に居ればいいんだ。俺は俺である事に変わりはないんだから。

 なんだ……何も恐がること、なかったんだ……


「五十嵐はさー、自分が女なんだってことをそんな否定すんなよ。持って生まれたものを否定していたら、苦しくなるだけじゃん。自分の事を『俺』って言っていいし、バスケが好きでいいし、負けず嫌いでいいし、五十嵐は五十嵐のままでいいから。そのまま、女である自分も受け入れて、自分の魅力の一つにしたらいいじゃんか」


 俺は井上の一言一句がストン、と腑に落ちて、悲しい訳じゃないのに、後から後から涙があふれて止まらなくなった。


 俺は自分でも気付かない内に、なにやら自分で自分を縛ってしまっていて、それで苦しくなっていたんだな。井上は今、それをほどくきっかけを、俺にくれたんだな……。

 ハハ……お前、凄い奴だなー、井上。

 俺は涙が光る瞳で真っ直ぐ井上を見上げて、微笑んだ。


「なんか色々とゴメン、井上。あと……ありがとう」


 井上は見上げた俺の顔を見て、照れたように頬を染めてふいっと視線を横にそらすと、口元に手を当ててコホン、と一つ咳払いをした。


「あー、五十嵐俺のこと、好きになったりした?」

「うん、すげー好き。俺の母ちゃんになって欲しいくらい!」


 グワシッ!


 井上はジトーッ、と目を細め、再び俺の後頭部を結構な力で掴んだ。

 ギリギリと締め付けられて、先ほどよりも強い怒りを感じる。

 ちょ……なんで!?


「井上、痛い痛い痛い!」

「うるせぇ。この、お馬鹿さんめがっ!!」


 俺は井上に頭を掴まれながら、再び涙をこぼしていた。掴まれた頭が痛いせいで泣いていた、のも、あったけれど。

 井上が側にいてくれて、良かった。俺は井上に出会えて幸せだなぁ……と思う気持ちがあふれてこぼれていた涙も混じっていたってことは……井上には、内緒だ。



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