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3 なんでだっ。

 俺と井上はあの日以来、朝練前に一緒にボールで遊ぶのが日課になってしまった。

 井上も朝練開始30分前に現れるようになり、コートの中にバスケ部員が二人……となると、やはり自ずと絡んでしまうのが自然な成り行きというものだ。


 井上は俺が一人で遊んでいるのを、座ってただ眺めていることの方が多かったが。時々1on1の相手をしてくれることもあった。

 やっぱ、男子には、パワーやリーチで敵わないんだけど。俺にとっては、格上の相手に向かって全力で当たれるだけで気持ちいいから。井上とやるのは、楽しい。


 そんで井上は、俺がなんか、相手して欲しいなー、と思っているタイミングを絶妙に読んでコートに入ってくる。

 空気読むのが上手すぎて、スゲェ、と思う。相手のことをよく見ていて、頭がいいんだよなー。これは……モテるな。うん。こいつモテる、確実に。


「井上さー、彼女とか、いるの」


 ひとしきり動いた後、壁際で床に二人並んで腰を下ろして、休憩したところで。

 俺は隣に座っている井上に、純粋な好奇心から聞いてみた。

 井上は俺の発言の内容に驚いたように、こっちを見ている。


「いない、けど……何、急に。なんで今それ聞いた?」

「別にー。お前確実にモテるだろう? もし彼女さんとかいるなら、こんなふうに二人で遊んでるのはよくないかなーと思って」

「……お前、いきなりなんつーこと言い出した。それはフラグか。フラグなのか」

「はあ? 立ててないですよ」

「…………ですよね」


 井上はフゥ、と息をついて、立てた両膝の上に乗せていた両腕の上に額を付けるように、頭を垂れた。ややあって井上は、両腕に頭を乗せたまま顔だけ俺の方に向けて、チラリと見上げてきた。


「……お前は?」

「え?」

「お前は、いるの。彼氏とか」


 俺は目をパチクリしばたいてしまった。

 なるほど。いきなりこういう質問をされると、驚くものなんだな。


「いないよ。いたこともねーし」

「…………そーなんだ」

「井上は何やらいっぱい武勇伝持ってそーだな」

「あー、まあ、そこそこ……だな」


 井上の目がチョット泳いだ。……これは、深く聞かないでおこう。うん。

 井上は細心の注意を払ってさり気なく、といったように、引き続き俺に話を振ってきた。


「でもさ、やっぱ、片想いでも好きな奴とかは、いたでしょ?」


 ……好きな奴?

 いたこと、あったっけ……?

 うーん、と首をひねっている俺を見て、井上は若干顔をひきつらせた。


「お前……そこからかよ……」


 ハァ〜、と盛大なため息をつかれた。

 すごく上からあきれられたような気がするのは、何故だ。イラッとするんですけどっ。


「だって好きとかそーいうの、どっからがそうなのか、わかんねーし。友達の好きと、何が違うんだよっ」


 俺は頬を膨らませながら、キレ気味に言い返した。


「どっからって……例えば、」


 井上は上体を起こして床に手を突き、俺寄りに体重を傾けると、ジッと俺の顔を覗き込んできた。

 なんだ。急に、顔近い。

 俺はなんとなく、井上が顔を近付けた分だけ、後退した。

 すると井上は、俺が後退した分だけ、また距離を詰めてくる。なんだ、この地味なイヤがらせは!


 ズリズリズリ……後退する俺。

 ジリジリジリ……詰める井上。


 やがて俺の背中が壁に触れて、それ以上後退できなくなってしまった。


 こいつ、俺をコーナーに追いつめて、何なんだよ!?

 俺はキッ、と井上の顔をにらみつけた。

 なんか知らねーけど、とりあえず負けねーぞ!


「だから……お前は、そーやって、煽るなって……」


 井上は俺をイラつかせている自分の行いを棚に上げて、またなんか、上からあきれたような言い方をしてきた。

 どーしろっつーんだよ!


 ぷくっと頬を膨らませてにらんでいる俺を、しばし眺めていた井上だったが。ふいに空気を緩めたようにフッ、と苦笑すると、詰めていた距離を定位置に戻してくれた。


「ハイハイ、ダイタイワカリマシタ。……道のりは遠いなー。頭痛いわー……」


 やれやれ、といったように井上は、またもや盛大なため息をついた。なんでだっ。なんで今俺はこいつに上から見下されてイタイ呼ばわりされなきゃいかんのだっ。

 イラッとするんですけどっ。


 しかしどうやら、そろそろモップがけに取り掛かった方が良さそうな時間である。

 ハイ、終わり終わり〜。

 俺はまだ若干モヤモヤしていたものの、気持ちを切り替えて立ち上がり、モップを取りに倉庫へ向かった。



 ***



 翌朝。俺は電車のシートに座って朝練に向かいながら、脳裏で昨日の井上の、上から目線のあきれ顔を思い出し、目を閉じて顔をしかめていた。


 くそっ、井上め……。爽やかな朝のひと時に俺をイラつかせやがって。もう、今日は絶対、勝負してやる。そんでギッタギタにしてやる! してやっかんな!


 俺はどこかの国民的ガキ大将のような台詞を頭の中で叫び、目を開けた。



 …………?



 不意に俺は、左隣に座っているサラリーマン風の中年男性に違和感を感じた。

 俺は座席の一番右端に座っているのだが。その男性と俺の距離が、なんか近い。軽く圧迫感を覚えるほど、密着されている。

 気にしすぎか……?

 でも、その男性の左隣の人との間には、適度なスペースが空いているのに、俺の方にはこの圧迫感……て、やっぱ、おかしくないか?


 俺が違和感を感じながらも、どうしたものか、はかりかねていた時だった。

 俺に不自然なほど密着していたその男性の右手が、ツツツ、と俺の太ももの辺りを撫でてきた。


「!?」


 これは……まさか、痴漢、というものか……?


 俺は一気に青ざめた。まさか、自分がそんな事態に遭遇するなどとは、一ミリも思っていなかったので、突然の事態に俺は、どうしていいか、わからない。

 どうしよう。

 周りには、こんなに沢山人は居るのに、おそらく他の人からは、ただ隣り合って座っているだけにしか見えない。

 そう見えるように、巧妙に触れてくる。


 俺が、誰かに助けを求めれば、いいのだろうか。でも、俺の気のせいだと言われてしまえばそれまでの気もするし……何より、声を上げる、ということが出来そうにないほど、俺はショックですくみあがっていた。

 どうしよう、どうしよう……!

 俺が固まっていると、左隣の男性が、耳元で小さく囁きかけてきた。


「その制服、降りるの次の駅でしょう? 一緒に、降りていい……?」


 俺は内心恐怖で凍りついた。ついてくるつもりなのだろうか!?

 いやだ、怖いっ……!!


 電車がホームに着いて、ドアが開いた瞬間、俺は素早く立ち上がり、ダッシュで電車から飛び降りた。

 そのまま全速力で階段を駆け上がり、改札を出て、走り続ける。

 まだ、運動部の朝練が始まるよりも、早い時間。

 他に学校に向かう生徒は、周りに居ない。

 俺は怖くて後ろを振り返ることもできぬまま、ひたすら学校に向かって走り続けた。


 ハァ、ハァ、ハァ……


 5分位全力疾走した俺は、校門の中に入った所で、ひどく息を乱しながら、ようやく立ち止まり、後ろを振り返ってみた。

 誰も、追いかけてきていない。よかった……。


 俺は汗をかいた額を手の甲で拭いながら、よろよろと体育館に向かった。水が飲みたくて、水道に向かい、蛇口をひねってゴクゴクと飲んだ。そのままジャブジャブと顔を洗い、カバンからフェイスタオルを取り出して、濡れた顔を拭く。


「ふ……」


 乱れていた呼吸が整ってくるに従って、先程の恐怖がよみがえってきてしまう。

 カタカタカタ……

 俺は小刻みに震えだした。じわり、と目頭が熱くなり、視界がぼやける。


「う……ううっ……」


 俺はフェイスタオルに顔を押し当てて、漏れそうになる嗚咽おえつを必死に押し殺していた。


「五十嵐……?」


 背後から、少し遠慮がちな呼びかけが聞こえて、俺はビクッ! と肩を揺らした。


「どうした……?」


 声の主が近付いてきた。

 落ち着け、俺。この声は、井上……だ……。


 井上は俺の異変に気付いたのだろう。緊張をはらみながらも、俺を刺激しないような、優しい声音で声をかけてくれている。

 井上が目の前に立った気配を感じて、俺は押し当てていたフェイスタオルから、そろそろと顔を上げた。


 井上は俺の顔を見て、瞳に動揺の色を浮かべた。まさか泣いているとは思わなかったのだろう。

 井上は、事態を見極めようとするかの様に目をすがめながら、真剣な顔で、再び俺に声をかけた。


「どう、した……?」


 俺は井上の気遣うような優しい声を聞いて、じわじわと緊張が緩み、一気にぶわっと瞳に涙が浮かんだ。


 せきを切ったように次から次へと涙が溢れ出し、俺はそのまま、目の前の井上の胸に、ガッシと飛びついてしまった。フェイスタオルの代わりに井上のシャツに顔をうずめて、再び嗚咽を押し殺しながら、そのままひとしきり、泣き続ける。


 井上は何も言わずに、ただ、そっと。俺の背中を優しく撫でながら、そのまま俺を胸で泣かせてくれた。



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