04 指を焦がす
バチン、と大きな音が鳴った。
――失敗したか。
煙が立ち昇る指先を見つめて、ルイーズはため息を吐いた。
(ああ、集中できない!)
原因はわかっている。
夫だ。
結婚して一度しか顔を合わせていないイケメンの存在が頭にちらついて、どうにも集中できない。
(ああ、いくら敷地が広いとはいえ、同じ職場なんだもの。いつ鉢合わせになるか、わかったもんじゃないわ……!)
評判を鑑みるに、出会い頭に突然声を張り上げたり、暴力を振るったりするような人間ではないだろう。――だが、相手は(おそらく)自分を嫌っている人間である。
しかも、次期公爵。
こんな日が来たときのためにここまで上り詰めたのだから、多少の権力に屈しはしない。ただ、何を言いだすかわからないから、不安だった。
「先輩、指を焦がすなんて珍しいですね」
見習いも兼ねて、同室で作業していた新人のエメルダ・キリル・イグニスが小首を傾ぐ。十七歳になったばかりの――籍だけはまだ学院に置いているらしい彼女は実に初々しく、フレッシュだ。
灰色の髪の毛をぼんやりと見つめながら、再度ため息を零した。軽く手を振ると、火がついて黒ずんでいた指先の皮膚が修復されていく。
「無詠唱で魔術を発動するなんて、さすが先輩!」
「そう、詠唱。なんとか詠唱文を短くできないかと思って試してみたのだけれど、失敗してしまったわ」
魔術を発動させるためには通常、詠唱文というものが必要だ。ルイーズほどの魔力があればまた別だが、そんな規格外の人物は魔法師団にだっていない。
つまり、ルイーズにとっては詠唱しないほうが通常なのであって、「いちいち口を動かすのとか、面倒臭くなあい?」と詠唱文を省いてみることにしたのだが――。
「駄目ねえ」
詠唱文というのは現時点でそのようにできているため、これ以上削り落とすのはなかなかに難しいことのようだ。当然だが、一朝一夕でどうにかなるものではない。
わずかに余韻の残る指先を擦り合わせていると、それを見ていたエメルダが苦笑した。
「それ、この前の飲み会で師団長が言いだしたやつですよね」
「ふふ、そうね。いつもの気まぐれ」
「詠唱文の省略、果ては無詠唱だなんて、実現できたらすごいですけど、たぶん無理ですよ。しかも、普段から無詠唱で術を完成させてしまう先輩には、一番向いていない研究テーマだと思います」
「あら、そんなに酷いこと言わないでちょうだい」
とはいえ、事実である。
しかし、疑問に思うとやってみたくなるのが研究者。『師団長の気まぐれ』とは言うものの、飲み会でそれを口に出したことが気まぐれなのであって、本人も何度か試したことはあるのだろう。
指先が少々弾けただけ。
思っていたより変な暴発はしなかったな、とルイーズは失敗例のひとつとして心に留めておくことにした。
「ああ、それより先輩!」
ふと、思い出したようにエメルダが声を弾ませる。
横目にそちらを見ると、好奇心を宿した菫色の瞳と視線がかち合った。――嫌な予感。テンションの高さに身構えつつ、休憩を取ってもいい頃合いだったので、ひとまず手を休めることにする。
「昨日、見ましたよお」
「昨日――」
とは、いったい何か。
などと、聞かずともわかっている。
昨夜開かれたのは、王家主催の舞踏会。男爵家出身のエメルダも参加していたはずなのだ。あの茶番劇を見ていないはずはない。
ルイーズがげっそりとした表情を浮かべたのを見て、エメルダは少女らしくコロコロと笑った。
「もうね、スカッとしました! なんなら、もっとやってくれればいいのにって思ったくらい。これであの女、しばらく社交界には出てこられませんよね」
「『あの女』? ということは、あの子のこと知っているのね」
「学年は違いますけど、同じ学校の生徒ですもん。あの女、同級生に上位貴族がいないからってでかい顔をしていて、あたしみたいな下位貴族には『伯爵家に逆らうな』だの『逆らえば家を潰してやる』だの、やりたい放題なんです」
「ええ?」
思わず、顔を顰める。
(いやいや、爵位を盾に弱い者いじめをするなと喚き散らしていたような気がするんだけど……?)
だいたい、彼女の家は歴史こそあれど、他家を潰すほどの権力は持ち合わせていない――はずだ。それに、たとえ彼女がそれを望んだとしても、あの両親や兄が許すとは思えない。
が、万が一の場合を思うと、逆らうに逆らえなかったのだろう。まったくもって卑劣なやり方である。
「学院でも『自分はルーファスさまのお嫁さんになるんだ』って豪語していました。まあ、ほとんどの人はただただ呆れてましたけど」
「でしょうね」
しかも、許されていないのに名前呼び。
これはもはや不敬罪が適用されてもいい案件なのでは。
「先輩が既婚者でさえなければ、殿下をおすすめするんですけど」
「相性もいいと思いますよ」と続けたエメルダに、ルイーズはぎょっとした。
「ちょっと……」
「身分差も、本来は侯爵位以上が望ましいんでしょうけど、伯爵家のご令嬢ならまあギリって感じでしょうし、魔力も知識も豊富だし。なにより、殿下ご自身が先輩と大の仲良し!」
「やめてちょうだい!」
思わず、ほとんど悲鳴のような声を上げる。
――鳥肌が立った。
あの腹黒王子と仲が良いだなんて心外もいいところだわ、と。
「あのお方がわたくしに良くしてくださるのは、夫の親戚だからよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「ああ、あのクズ男ですか」
「クズ男」
いや、まあ、自分もそう思ってはいたけれど、と内心同感しながら、「そういうこと言わないの」とルイーズは形式だけの否定を述べた。
「で、いつ離縁するんです?」
しかし、エメルダの追撃の手は緩まない。
生意気な口を利いてはいても、敬愛する上司への仕打ちは腹に据えかねていたのだろう。この少女はことあるごとに、早く離縁したほうがいいと勧めてくるのだった。




