02 母は強し
「あの腹黒王子ったら、わたくしの反応を見て楽しんでいたに違いないわ!」
五年前、よく知りもしない公爵家の次期当主になぜだか求婚され、さしたる障害もなく嫁いできたはいいものの。
初夜を迎えたその翌日、顔を合わせる間もなく仕事だと言って、隣国に旅立っていったのだった。なんでも、ルヴェリオの属国となっている隣国で、未曽有の大震災が起きたらしい。
復興支援として、騎士団の一部が派遣されることになった。それにルイーズの夫も名を連ねていたのである。
「それで、旦那さまも参加していたんですう?」
「ええ、いらっしゃった……と思うわ」
「『思う』?」
「ほ、ほら、わたくしって輿入れしてきたときがほぼ初対面だったわけじゃない? つまり、五年前に顔を合わせたのが最初で最後というか。遠目に見たり、話に聞いたりしたことはあるから、人となりとか雰囲気とかはなんとなくわかるんだけど、実際のお顔立ちってあまり覚えていないのよね」
だからこそ、しがない伯爵家に縁談が持ち込まれた当初はなぜと思ったものだが、その後の扱いを考えれば、丁度いいと思われたのだろう、とルイーズは推測していた。
バルニエ公爵家は、現在の夫人が王妹ということもあって、すでに王家とは縁続きだ。これ以上の権力は必要ない。
貴族社会のパワーバランス的にはむしろ、少し力を削いだぐらいが丁度良かっただろう。そこで白羽の矢が立ったのが、毒にも薬にもならない平凡な伯爵家の娘。ルイーズである。
「つ、つまり、奥さまは……旦那さまのお顔がわから、ない?」
「いえ、いいえ! まったくわからないというわけでは……。現に、今日の舞踏会だって『あれかしら?』という方はいらっしゃったわよ。たぶん、あの方だったと思うんだけれど」
えへへ、と誤魔化すような笑みを浮かべたルイーズに、ラナは「まあ、いいですけどお」と唇を尖らせた。ルイーズより幾分か年上であるはずなのに、その仕草が様になっているのは、年齢よりもやや幼い顔立ちをしているからだろう。
「向こうが話しかけてくることもなかったんですかあ?」
「まあ、わたくしは王族の方々にご挨拶に伺っただけだし。そもそも、あの人が今のわたくしを見たとして、わたくしだと認識できるか怪しいものだわ」
ルイーズはその当時、十七歳になったばかりの娘であった。
それから、約五年。
長い年月は、ひとりの少女を大人へと変えた。強く、強く、自立した女性へと。
「奥さまってば、だいぶ雰囲気変わりましたもんねえ」
ラナの言葉に、ルイーズは苦笑する。
確かに当時の自分は、内気で自己主張の苦手な小娘だったわね、と思って。
けれど、変わった。変わらざるを得なかった。
「ええ、そうね。――母は強しと言うじゃない」
初夜を迎えたその日の、たった一回。
まさかそれだけで懐妊してしまうとは、誰も思わなかっただろう。ラナ曰く『百発百中の旦那さま』らしいが。
子どもから大人になったばかりのルイーズにとって、慣れない環境での妊娠、出産というのは、喜びと同時に、それ以上の恐怖をもたらした。
(正直、覚悟も何もあったものじゃなかった)
けれど今、生まれてきた娘がこうしてすべての原動力になっている。今までにも家族と呼ばれる存在はいたが、肉親としての親愛を覚えたことはない。
夫となった人との間にも愛情はなかった。
そんな自分が子どもを愛せるのだろうかと思っていたが、すぐにそんな心配は杞憂だとわかった。
理屈ではない。
――愛しい。
小さな体と腕の中に抱いた瞬間、『この子を守れるのは自分だけだ』と思ったのだ。
同時に、強くならなければいけない、とも。
「っていうか、旦那さまってこんな人でしたっけえ? 奥さまのことはまだしも、自分の子どものことは聞いてくるかと思ったんですけどお……」
心底不思議そうにラナが言うので、ルイーズは複雑そうな表情を浮かべた。母親が乳母を務めていたというだけあって、夫のことはラナのほうがよく知っているだろう。
実際、噂に聞く夫の評価は『勤勉』であったり『義理堅い』であったり、素晴らしいものばかりだ。厳格な母と穏やかな父の間に生まれた唯一の跡取り息子。
昔から文武両道で、学生の頃こそ多少のトラブルはあったようだが、実に完璧な人生を歩んでいたという。そう、なんの取柄もない伯爵家の娘を娶ったこと以外は。
「聞かれても困るわ。今のところ、会わせるつもりはないもの」
なににせよ、付き合いの長いラナと自分は違う。
五年間、一度も顔を見に来ないどころか手紙への返事もなく、妊娠したときにさえ気にかけてはもらえなかった。
ルイーズにとっては、それが夫のすべてだ。
(考えれば考えるほど、とんだクズだわ――あの男!)
できれば今後、あまり顔を合わせたくない。
胃がキリキリと痛むのを感じながら、「明日、仕事休もうかしら……」とぼやくルイーズであった。




