17 プリシラ・ファナ・ルヴェリオ
(……うわ)
ルイーズは、声に出さなかった自分を褒めてやりたい気分だった。
あくまでも優雅に、ゆったりとした次期公爵夫人らしい動作で歩みを止める。
王宮に複数ある噴水の中では小さめに作られたそれの向こう側に、男女三人の姿が見えた。
(何がしたいのかしら、あの人)
頭の中に妙に整った美しい笑みを思い浮かべ、ルイーズは嘆息する。しかし、すぐに諦念の色を滲ませ、再び歩き出した。
そこにすかさず、あどけない少女の姿が飛び込んでくる。
「――ルイーズ先生!」
腕の中にすっぽり収まった華奢な体を見下ろして、ルイーズは微笑んだ。
「王女殿下」
プリシラ・ファナ・ルヴェリオ。
ルーファスの妹であり、この国の第一王女である。
「今日は何を教えてくださるの?」
擦れていない、純真無垢な瞳で問い掛けてくる第一王女をギュッと抱き締め、「そうですわねえ」と呟いた。
「今日は少し遊んでみましょうか。いつも勉強勉強だと、疲れてしまうでしょう?」
「そんなことないわ! 先生の授業はとっても面白いもの! でも……先生の『お遊び』もわたくし、好きよ」
「――これはこれは、普段内気な妹が随分懐いているようだねえ」
割り込んできた第三者の声に、プリシラは「あ」と小さく声を上げた。
瑞々しい頬に、サッと朱が走る。
抱き合う女二人に近付いてきたのは、ルーファス第三王子と――ルイーズの夫、アルトン・ジョンズ・バルニエである。
ルイーズの微妙な表情を読み取ったのだろう。
ルーファスはからからと可笑しそうに肩を揺らした。
「お前のそんな顔、久し振りに見たよ! いつも余裕そうにしている人間の表情が崩れる瞬間って、愉しいよねえ」
「……ルーファス殿下、趣味が悪うございますわよ」
どうも、この国の第三王子は次期公爵夫人で遊んでいる節がある。普段から「お前はもはや妹のようなものだからね」と言って憚らないので、繊細で内気な妹にそうできない分をぶつけているだけかもしれないが。
「ルーファス、これは……?」
困惑の表情を浮かべるアルトン。
愉快犯のようなルーファスのことだから、おそらく前情報なく二人が顔を合わせれば動揺するのをわかっていて、あえて伝えていなかったのだろう。
「殿下……」
瞬時に事の次第を察したルイーズが呆れの色を滲ませると、ルーファスは「まあまあ」とにんまり笑った。そして、アルトンに説明を始める。
「ルイーズはいま、プリシラに魔術の指導をしてくれているんだよ。この子はかなり魔力が多いからね」
「……ルイーズが指導を?」
「いまや、この国でルイーズに勝る魔術師はいないってこと。人見知りなプリシラがここまで懐くというのも珍しいことだし」
とはいえ、このような関係になったのは、ここ半年ぐらいの話である。
曰く『人見知り』だというプリシラは、言葉通り、最初はまともに口を利くのも難しい有様だった。時間をかけて、いまのような関係を築き上げてきたのだ。
正直、一国の王女としてこの状態はまずいのだが――人見知りをしている最中にも愛嬌がまったくないというわけではないので、教育次第ではうまく隠せるようになるだろうとルイーズはほとんど確信している。
「それで、殿下方はなぜこちらに?」
「たまには妹の授業を見学しても良いだろう?」
「……お忙しい殿下が? わざわざそのようなことを?」
「ふはっ、その顔! ルイーズ、お前は僕のことをなんだと思っているんだい?」
「愉快犯ですね。何か突拍子もないトラブルが起きたときの戦犯は、だいたい殿下です」
「ルイーズ……」
ずけずけとした物言いに、アルトンが愕然とする。
五年前の妻とは確かに違う。
だからといって気持ちが変わることはないが、人が根本から変わるのはとても大変なことだ。きっとそれだけの何かがあったのだろう。
「ルイーズ先生」
腕の中から呼び掛けられて、視線を落とす。
せっかく自分との時間なのに構ってもらえなかったのが不満だったのか、プリシラはふっくらとした頬をやや膨らませていた。
立場が立場なら、自分の娘が彼女の遊び相手に選ばれていたかもしれないなと考えながら、ルイーズは微笑んだ。
「さあ、それでは始めましょうか」
白く細い指先から、ふわりと氷の結晶が立ち昇る。
それは渦を巻き、やがて透き通った狼の形へと姿を変えた。
「――わあ、素敵!」
幻想的な光景に、プリシラが感嘆の声を上げる。
一匹、二匹、三匹。
ルイーズによって生み出された氷の狼たちは、軽快な足取りで二人の周りを駆け抜け、空に舞い上がるようにして消失した。
「どうやら、ルイーズとの対話は失敗しているようだね」
すでにアルトンがルイーズのもとを訪れたのは、情報としてルーファスに届いていたらしい。苦笑気味にそう言われて、アルトンは授業――もとい『お遊び』をする二人を眺めつつ、「仕方ない」と呟いた。
「『仕方ない』?」
「……母の言うことを『それが正しいものだ』とずっと信じてきたが、五年も放置していた。――白い結婚ではないが、冷静に考えれば、夫婦仲が冷める理由としてはそれだけで十分だろう。そのうえ、知らぬ間に家を出て、出産し、子どもをひとりで育てていると言う。いくら頭を下げても足りないことだとわかっている」
――だから、対話どころかまともに取り合ってもらえないのは仕方がない。
アルトンはふるりと睫毛を震わせた。
(切なげな表情だけど、ごつい男にそれをされてもまったくときめかないねえ……)
見よう見真似で師匠の後に続き失敗するプリシラを見守りながら、ルーファスが肩を竦める。
「まあ、お前の母親は腐っても元王女だ。厳しくはあるが、品行方正。清廉潔白な人間にも見えただろう。でも、正直、王家側の人間としてはあれは信用に値しない人間だ」
「……信用に値しない人間」
ルーファスの言葉を繰り返して、悩ましげに眉根を寄せるアルトン。
当然の反応だろう。
大人になってからも無条件に信じ、尊敬していた母親が、実は王家側の人間に不信感を抱かれていたというのだから。
「特に、父上は母上のことを溺愛しているだろう? その母上とお前の母親は昔、ひと悶着あったそうだから……反省も後悔もしないあの人のことが、許せないんだろうね」
「……それは――」
「詳しいことは、ほとんど国家機密のような扱いになっているから、息子のお前にも軽々しく教えることはできないけれど。ただ、いまでこそ公爵夫人として振る舞っているあの人も、昔はただの我儘王女だった。それがどういうわけか、いつの間にか改心したらしい――というのが、我々の親世代の認識らしいよ。まあ、社交界で力を持つ公爵夫人のことを公に悪く言う人はいない。子世代の我々に、まるで最初から立派な人間であったかのように思われているのは、それだけの理由かな」
国家機密に準ずる扱いになるような出来事。
内容を知らずとも、それがとんでもないことだというのはわかる。なにしろ、自分の母親は一国の王女だったのだ。
そして、ルーファスの母親は隣国の元王女。
それに加えて、アルトンの母親はその隣国の元王太子の婚約者だったのだ。見識を深めるために隣国に留学している最中知り合った王太子と恋に落ち、両国の関係のためにも婚約を結ぶに至ったが、王太子が不慮の事故で亡くなったことで泣く泣く帰国し、幼馴染みだった公爵家の長男と結婚したという一連の恋物語は、ルヴェリオの若者なら誰もが知るところである。
だが、『改心したらしい』と言うルーファスの言葉からすると、単純にそれだけの話ではないのだろうと、難しいことを考えるのが苦手なアルトンにもよくわかった。
「お前は騎士の鑑とも言える男で、少し潔癖なところがある。無論、家族は家族だというだけで味方になろうとするだろう。それは短所でもあるが、長所でもある。だから、お前の信じるお前の母親というものを口先だけで壊そうとしたところで、無意味だと思っていた。でも……今はどうだい?」
物心ついたときから、アルトンにとっての母とは『美しく気高い完璧な存在』だったのだ。母は母であるというだけで『尊敬しなければならない』と思っていたし、自分を生んでくれたのだから『幸せにして差し上げたい』とも思っていた。
そんなアルトンはまさに理想の騎士を体現したかのような存在――とはいえ、人の裏が読めないという点においては、残念ながら少々足りないと言わざるを得なかった。
だから、ルーファスは心を許す従兄弟にさえ何も言わずにきたのだ。母だからとその一点のみで盲目に信じるこの男には、何を言っても手に余ることだろう、と。
――しかし、時は来た。
「……母だから、任せた」
「うん?」
「籍を入れた翌日に隣国での任務を言い渡されても、まあ、文句がないわけじゃあないが、母がルイーズを導いてくれると信じて……事実、あの人もそう言っていたから、なんの疑いも抱かず任せたんだ。だが……」
それ以上、言葉が続けられることはなかった。
しかし、あれだけ敬愛していた母親に強い疑念が生じていることは、その表情が雄弁に物語っていた。
そんな従兄弟の姿に苦笑を深めたルーファスは、いまは空中に小さく虹を作り出しているルイーズを見て、目を細める。
「彼女、昔はこんな性格じゃなかったらしいね」
――とは、ルイーズが自分で言っていたことだ。
アルトンはおもむろに頷いた。
「まあ、そうだな。外見も中身も……だからこそ、あの舞踏会では気が付かなかった。あのとき、真紅のドレスを着用していただろう。俺の知っているルイーズは、原色系の派手な色合いはあまり好んでいなかったはずだからな。だが、似合うだろうと思ってはいたから、いつか説得して、全身コーディネートをさせてもらおうと思っていた」
「……全身コーディネート」
自身の妻を着せ替え人形にしたいと言う従兄弟にそこはかとない気持ちの悪さを感じながら、ルーファスが頬を引き攣らせる。
幼馴染みでもあり、従兄弟でもある男の恋愛事情などまったく興味はなかったが、話しぶりからするに、アルトンは自分の好いた女性と結婚をしたということらしい。可哀想なことに、その重たい感情をぶつけられる本人には、おそらくちっとも伝わっていないのだが。
「母親になったからか、以前よりもずっと……ああ、そうだ、母親に……」
「ちょっと、突然落ち込むのはやめてくれる? どうせ、『娘に会わせてくれ』と頼んであっさり断られた、とかなんだろうけど」
「……ルイーズから聞いたのか」
「いやいや、こんなの聞くまでもないって話。だいたい、魔術師団に所属するだけでなく、ほとんど何も持たない状態から副師団長という地位にまで上り詰め、王族とも交流を図り、多少の我儘が通る環境を作るまでの努力をしたのは、ほかでもない公爵家と対等、あるいはそれ以上の力を持ちたかったからだろう」
「なに……?」
「考えてみればすぐにわかるじゃないか。厳密には何があったか知らないけれどね、アリス嬢を手元に置き、かつ安全に守り抜くためには、公爵家の横槍が入ったところで揺らがない立場が必要だ。公爵夫人であるお前の母親が、嫁いだばかりの嫁を身ひとつで追い出した。これは正直、大問題だ。たとえお眼鏡に適わなかったとしても、元王女らしく気位の高いあの人らしくない。だが、逆に言うと、それだけ……あの人にとってはそうしなければならなかった理由があったとも考えられる。――さて、それはなんだろうね?」
嫁姑の関係だ。
トラブルが起きることもあるだろう。
だが、嫁いで一月ばかりの嫁が問答無用で婚家を追い出されるなど、聞いたことがない。
カサンドラがルイーズを疎ましく思っているのは事実だろう。アルトンも直接『離婚するように』と言われたばかりだ。
確かに、アルトンに再婚を勧めるつもりであるなら、すでに子どもがいるのは好ましくない。この国では女性にも爵位の継承権があるので、なおさらだろう。
とはいえ、男児がいる場合はそちらに譲渡されることがほとんど。もしアルトンが再婚し、そこに子どもが出来たなら、継承権の問題で、アリスが邪魔になることは間違いない。
それを守るために妻は――。
「まあ、そんなわけで、公爵家の一員であるお前は、ルイーズにとってもしかしたら、アリス嬢に近付けたくない人間のひとりとしてカテゴライズされている可能性があるということだよ」
「……ああ、そうだな」
もう遅いだろうが、真摯に向き合っていくしかないと、アルトンは決意新たに背筋を伸ばした。




