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気がついたら家族離散していました【修正中/休載中】(目処がつき次第再開)  作者: 桜木彩
第一章 五年越しの再会篇

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18/19

16 家を出たのは一月後

 ――アリス。

 アリス・ディディア・バルニエ。

 それが娘の名前である。


「……ええ、そうね」


 ルイーズはゆっくりと、しかし確かに頷いた。

 いくら五年の間まったく顔を合わせなかった夫とはいえ、「違う」と言うのはアリス()の父親をも否定する行為だからだ。

 アルトンが細く息を吐き出す。そこにはわずかながらも安堵の色が窺えた。


「俺の娘……いや、その前に」


 切れ長の瞳がリチャード、そしてエメルダを経由して、再びルイーズへと戻される。そして、諦めたように膝の上に置いた手のひらを握り締めた。


「君が公爵家()を出ていたこと、知らなかった」

「……え?」


 美しい微笑み(アルカイックスマイル)を浮かべていたルイーズも、その言葉にはさすがに表情を崩さざるを得なかった。

 ――どうして? 途中から諦めてしまったけれど、最初のほうは確かに手紙で近況報告をしていたはずなのに。

 訝しげに眉根を寄せたルイーズに、アルトンは「やはりな」と嘆息する。第三王子(従兄弟)の言っていたことはどうやら本当らしい、と。


「もしかして、()()()()を手紙で伝えてくれたりしただろうか」


 あまりに的外れな質問に、どう反応していいかわからなかったのだろう。ルイーズは青いを通り越して紙のように真っ白くなっている夫の顔を見つめたまま、険しい表情を浮かべていた。


「ええと、つまりー、その言い方から察するに、ク……げふんげふん。小隊長さまは先輩からの手紙を受け取っていなかったってことですかね?」


 見兼ねた――というより、空気を読むつもりがないエメルダが話を引き継ぐ。「あっぶねー! クズ男って言っちゃうところだった!」と背筋に汗を垂らしながら。

 しかし、咄嗟の誤魔化しにより(ルイーズだけは白い目で見ていたが)本人は気がつかなかったらしい。神妙な顔つきで微かに首を振った。


「……いや。厳密には『一度も』というわけではない。隣国に赴任してから最初の一月(ひとつき)ほどの間に三、四通は届いたと思う。だが、当時は新たな環境に慣れるのに必死で、あとで時間ができたときにでも読もうと取っておいたんだ」


 わずかに間を置いて、深く息を吐き出す。()()()()に自身の失態を告白するのは、屈強な騎士でも緊張するものだ。

 届いた手紙にただ目を通すだけでよかった。それだけで、妻が家を出たことについて、なにかしらの対策が取れたかもしれないのに。少なくとも、母の言葉だけを鵜呑みにして五年間も帰らないなどということはなかっただろう。

 遅すぎる後悔が、アルトンの頭を(よぎ)る。


「最初の一月(ひとつき)……?」


 「それは可笑しいわ」とルイーズ。

 その表情には、わかりやすく困惑の色が滲んでいた。


「わたくし、最低でも半年ほどは手紙を送っていますもの。一度も返事が来ないので、もう無理かしらと思って、そのあとは諦めてしまったのだけれど」

「う……そ、それはすまない」


 騎士団に所属する者なら誰もが憧れる男が、眉を垂らして情けない顔つきになる。


「まあ、最初の一月(ひとつき)のことは、ひとまず置いておくとして。……二カ月目からの手紙は届いていなかったということよね?」

「……ああ。ルーファスが言うには、君に決闘を申し込んだあの女性騎士が密かに処分していたのではないかと……」


 ――つまりは、ただの恋愛沙汰?

 思わず、げえ、と顔を顰めたルイーズに対し、アルトンは「本当になんと言っていいか」と項垂れた。

 それに対し、エメルダは瞳を輝かせる。そうだ。第三王子を名前で呼ぶこの男は、確かに王家の血に連なる者なのである、と。


「確たる証拠が出ているわけではないが、あいつのことだから何かあるのだろう。つい最近、君にもう一度手紙を送るように頼んだとかなんとか言っていた」

「あ、そういうこと。殿下はきっと、手紙の件を疑問に思っていたのでしょうね。それで、ご自身の考えを確認するために、わたくしに手紙を送るようにおっしゃったんだわ。あのときも『ご自分で送ればいいのに』と思ったし、そう申し上げたのよ。でも、いつものようにふわふわと躱されてしまって……結局、手紙は旦那さまの手元には届かなかった。殿下が確信を得たのはそのときかし――」

「いや、ちょっと待ってくれ」


 それは緊張感に満ちた声だった。

 まるで焦燥感に駆られているような、あるいは恐怖を堪えるような。そんな声だったので、ルイーズは思わず口を噤む。

 夫の顔は、可愛そうなくらい白くなっていた。


「今、半年は手紙を……と言ったか?」

「え? え、ええ」

「つまり、婚姻を結んで半年後にはすでに家を出ていた?」

「……正確には一月(ひとつき)後ぐらいね」


 いったい何が言いたいのだろう。

 そんな疑問を滲ませた不思議そうな回答に、アルトンがひゅっと息を呑む。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、じわじわと胸が締め付けられるのを感じていた。


「なら、娘――アリスを産んだのは公爵家ではなく……?」

「ああ、ええ、外で……」


 ――なんということだ。

 アルトンは愕然とした。


 ただでさえ母体に大きな負担がかかる命がけの出産。それが公爵家から出たあとだったということであれば、フォロー体制も整っていなかったに違いない。

 それをいけしゃあしゃあと――アルトンは生まれて初めて、母親に強烈な反感を抱いた。しかし、母親を信じ、五年頑張ればいつでも妻に会えるからと、一度も帰国しなかったのはアルトンだ。

 まず責めるべきは、ほかならぬ自分(アルトン)である。


 アルトンはもう言葉にできず、椅子から転がり落ちるように見事な『土下座』を決めた。東方の国で見られる最上級の謝罪法らしい。


「す、すまない! 俺は君が公爵家を出て行ったことも、妊娠していたことも、出産したことも、たったひとりで娘を育てていてくれたことも……何も知らずに、隣国でのうのうと暮らしていた! 一度でも帰国する時間がなかったなど言い訳だ……!」


 くぐもった、けれども野太い大きな声が、ぐわんと響き渡る。床に這いつくばる夫の頭頂部をじっと見つめていたルイーズは、やがて無感動に切り出した。


「いえ、まあ、なんとかなっているから」


 その自立しきった女性の声色に、アルトンはさらに絶望する。――もう彼女は自分を必要としていないのだ、と。

 正確には、顔もおぼろげだったぐらいなので、結婚した当初もたいして頼っていたわけではないのだが、儚げな(ルイーズ)のイメージが強すぎたのか、アルトンはまるで今になって崖から突き落とされた気分になってしまったのだ。


アリス()に……会わせてはもらえないだろうか」


 震える声で続ける夫に、ルイーズは「え、嫌よ」と短く返す。

 夫が思っていたほど()()()()()でなかったとしても、血のつながった身内よりも圧倒的に軽く扱われていたことも、そのせいで五年間一度も帰国しなかったことも事実だ。『娘には会わせない』という当初の予定は変わらない。


「あの子はまだ幼いけれど、とても賢いの。()()()()()()()父親がいないことにも、とっくに気が付いているでしょう。それに、あなたがいない間に公爵家を出たことで、あなたの子ではないのかも――だなんて、馬鹿げた噂が出ているのよ。今さら『父親』だと現れて、わたくしたち家族を引っ掻き回さないでほしいわ」


 ――()()()()()()()()

 そこに自分が含まれていないのを察して、アルトンは床に額を擦り付けたまま下唇を噛んだ。それでも、この世に父親がいるのだとすれば、自分だけだ。

 確かに幼馴染み(アニエス)もそんな噂について口にしていたが、(ルイーズ)の貞淑さは信じている。五年前の彼女とは違うのだとしても、なお。


「今さら『家族』にしてほしいだなんて自分勝手なことは言わない。……昨夜、母と話した。確かなことは何もおっしゃらなかったが、あのときの様子からすれば、君は公爵家のタウンハウスや別邸にいるわけではないんだろう? 今、どこにいる?」


 アルトンの視界の端に映り込んだヒールの先がぴくりと動く。

 次いで、「お義母(かあ)さまに会ったの……」と喉から絞り出すような声が零れ落ちた。ワントーン下がったその声色に、アルトンは思わず体を固くした。

 町民同士の小競り合いを止めに行ったり、犯罪組織に乗り込んだりするときでさえ、ここまで緊張したことはない。


「何かおっしゃっていた?」


 静かな、けれどもどこか燃え(たぎ)るような色を滲ませたその声に、半ば無意識に顔を持ち上げるアルトン。

 ――暑い。

 そう思ったのはどうやら気のせいではないようで、「ルイーズよお、暑くておじさん、死んじゃうわ」とリチャードが胸元をパタパタ煽ぐ。

 はっと息を詰めて、ルイーズは自分を落ち着かせるように何度か深呼吸をした。それに合わせて、室内の温度が徐々に戻っていく。


「ク……小隊長さま、先輩に『お義母(かあ)さま』の話題は禁止(タブー)なんですよお。これ、魔術師団の中じゃ常識です。小隊長さまのお母さまなので、申し訳ないんですけどお」


 リチャード同様、胸元をパタパタと煽ぐ様子はとてもではないが、淑女らしいとは言いがたい。ルイーズは自身がやっと落ち着いてきた頃合いを見計らって、改めて口を開いた。


「……まあ、お義母(かあ)さまが何をおっしゃっていたとしても、わたくしにはもう関係ないのだけれど。例えばわたくしと離縁する、というような話だとしたら、わたくしは拒否いたしませんので、手続きのほう、よろしくお願いしますね」

「し、しない! 離縁などするものか!」


 ぎょっと目を剥いたアルトンの口から、否定の言葉が飛び出した。

 しかし、ルイーズは意外そうに「あら、そうなの?」と首を傾げるだけ。まるで『どちらでもいい』とでも言いたげな様子に、アルトンは自分の存在がいつの間にか切り捨てられていた事実を実感していく。


「……ルーファスからも、君がどこで暮らしているのかわからないと聞いている。だが、それはあり得ない。次期公爵夫人の居場所を王家が把握もせず放置しているなど――」

「ああ、それなら実際、王家の方々も把握なさっていないんだと思うわ。それでも厳しく追及されないのは……五年をかけて積み上げてきた立場と信用、かしら?」


 通常、貴族――特に重要なポストに就く高位貴族のすべては、王家に監視される。力があればこそ、謀反などがあっては困るからだ。

 実力だけで言えば、当然ルイーズもその対象となる。

 居場所が把握できないなどそれこそもってのほか。だが、ルイーズの場合、事情が少々特殊だった。


(本当は第三王子(ルーファス)殿下と魔術契約を結んでいるだけなのだけど。王家に対して翻意があれば、その場で命を落とすように……)


 だからこそ、ルーファスのほうも、ルイーズに対してはある程度無防備でいられるのだ。好悪はどうあれ、裏切りだけはないと確信しているから。


「ルイーズ……」


 すっかり他人を見る目で自分を見下ろす妻に、アルトンはもう一度頭を下げる。


「頼む。この五年間のこと……これからのこと、話し合いたいと思っている」


 そんなアルトンを見て、ルイーズはくすりと笑った。


「話し合い? お生憎さま。わたくしはその必要を感じていないわ。どこかですれ違いがあったというのは確かなようだけれど、だからといって、今後うまくやっていきたいと思っているわけでもなし」

「……俺は……一緒にいたいと、思っている」

「そうなの? まあ、仮にそうだとしても、あなたが一緒にいたい『ルイーズ』は五年前の『ルイーズ』であって、今のわたくしではないと思うわよ。あのいかにも儚げでひとりじゃ何もできないような小娘がお好みだったと言うのなら、なおさら」

「過去のこととはいえ、自分のことをそんなふうに卑下するのは――」

「卑下でもなんでもなく、客観的事実だわ」


 ただ五年間、国で待ちぼうけを食っていただけなら、新たに関係を築く気になったかもしれない。でも、到底それだけではなかったから、ルイーズは魔術師団などというものに所属しているのだ。

 どんな言葉も通さない頑なな声音に、「まあまあ」と飄々とした声が割り込んでくる。

 黙って成り行きを見守っていたリチャードだった。


「小隊長殿、五年も音信不通だったのに突然距離を詰められても、ルイーズのほうも戸惑うばかりだろうよ」

「……それは、そうかもしれないが」

「とはいえ、ルイーズ。お前さんも本当にいいのか? アリスはお前さんの大事な娘だが、小隊長殿の娘でもあるんだろう?」

「生物学的な観点で申しますと、そういうことになりますわね。ですが、わたくしは、家族たらしめんとするものは血ばかりでないと知っていますもの」


 ルイーズ自身、家族には恵まれなかった。

 実母(はは)は物心つく前に亡くなり、実父(ちち)が連れてきた女性が新たな母となった。ルイーズはまだ幼かったので、幼いときには彼女のことを実の母だと思っていたものだ。

 だが、彼女は純粋に笑みを浮かべるルイーズに言った。

 「自分は父親の愛人だった」のだと。

 義母(はは)にくっついてきた二人の連れ子は非常に意地悪で――いや、義兄(あに)のほうはそうでもなかったかもしれないが、少なくとも、義姉(あね)には散々な目にあわされた。

 実父(ちち)はというと、そもそも家族というものに興味がないのか、滅多に家には戻ってこなかった。実際、たまに顔を見せるときにもルイーズには会わずにまた出発する、ということも珍しくなかったため、ルイーズは実父(ちち)の顔をもはや思い出せないほどだった。

 そんな境遇で育ったからだろう。

 ルイーズは『血のつながりによる家族』を信じていない。


「――わたくしは、わたくしにとって大事なものを守るだけだわ」


 それ以外は何もいらないのだと言外に言い含めるルイーズに、アルトンははっと息を呑んだ。

 ――この人は、自分に必要なものをわかっている。

 自分の力をもってして守り切れるものだけを、懐に入れているのだ。そこにアルトンはいない。五年間も不在にしていたのだから、当然の帰結とも言えた。


(俺は……)


 そこでようやく、アルトンは『公爵家の自分と一度結婚してしまえば、逃げられることはないだろう』と慢心していた奥底の自分に気が付いたのだった。

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