15 娘の名前は
「よお、女子二人組!」
陽気な声に、肩を寄せ合ってデスクを覗き込んでいた女子二人組は顔を上げた。「あら」とそのうちの片方――ルイーズ・エマニュエル・バルニエが目を瞬かせる。
「師団長! お久しぶりじゃないですか!」
エメルダが喜びに声を弾ませた。
「二人して顔突き合わせて、何やってたんだあ?」
分厚い体を揺らしながら大股で近づいてくるのは、ルイーズが入団当初から世話になっている師団長のリチャードだ。
彼に家名はない。
平民でありながらも、その豊富な知識と魔力量から若干三十歳で師団長の地位についた天才の中の天才である。
「ああ、先輩ってば、この前師団長が飲み会で言ってた『詠唱文の省略』を実現しようとしてるんですよ。絶対先輩に向かないテーマだと思いません?」
エメルダの部下らしくない物言いに、リチャードはデスク脇に放置されていたパイプ椅子に腰掛け、「マジか!」とからりと笑った。
「で、調子は?」
「正直、わたくしとの相性は最悪ですわね」
「だろうなあ!」
だが、だからこそ燃えるとも言える。そんな研究者魂を理解したふうに、リチャードはうんうん頷いた。
そのとき。
「――失礼する」
ノックの音と共に、ドアが開いた。
「……あら、まあ」
太陽の光を背負いながら現れたのは、やけに体躯の良い美丈夫。思い切り困惑を滲ませたルイーズの声に、エメルダはその人物の正体を察した。
そして、「うわあ、クズ男じゃん!」と叫びださなかった自分を心の内で褒めながら、上司とその伴侶にさっと視線を走らせる。
「おいおい、坊ちゃん。ノックをするなら、返事が聞こえてくるまで待とうぜ」
漂い始めた気まずい空気の中、そう切り出したのはリチャードだ。
確かに彼の年齢からしたら『坊ちゃん』なのかもしれないが、その不遜な態度にエメルダは思わず目を剥いた。――いくらなんでも、お叱りを受けてしまうのでは?
「あ……ああ、すまない。失礼した」
しかし、そのとおりにはならなかった。
数秒前に『クズ男』と断じたばかりの男は、あろうことか謝罪を口にした。しかも、まるで「忘れていた」とでも言いたげな態度で。
リチャードはそんな男を面白そうに眺めたあと、おもむろに立ち上がり、自身が座っていた椅子を勧めた。暗褐色の瞳がわずかに見開かれる。
「まさか、騎士団の人間が魔術師塔に足を踏み入れる日が来るなんてなあ。いったいどんな風の吹き回しだ?」
無論、誰に用があるかなど一目瞭然なのだから、この質問に意味はほとんど無いのだろう――。
答えが返ってくる前に、リチャードは「ああ!」と大きく声を上げた。
「そういや、どこぞの騎士団員がこいつに喧嘩を売って再起不能にされたんだったか。そりゃあもう、魔術師が弱いだなんて根も葉もない噂は一瞬で消え失せただろうな」
「ああ、そうだな……いや、そうではなく」
「まあまあ、とりあえず座りなさいよ。エメルダ、茶を」
「ええー、あたし、給仕でも侍女でもないんですよお。それに、一応は貴族令嬢だってこと忘れてません? どちらかと言えば、傅かれるほうなんですよね……」
もっとも、貴族といっても実家が持っているのは男爵位であるので、魔術師の素養がなければ、高位貴族の家に奉公に出ていたのかもしれないが。
ぶつぶつ文句を言いながらも、エメルダは不承不承に重たい腰を持ち上げた。
「ええと、お前さんとはあまり話したことはないんだが……まあ、社交辞令でとりあえず言っておく。『隣国でのお勤め、ご苦労さん』。んで、その再起不能になったとかいう騎士は、厳重に注意してくれたんだろうな?」
普段は飄々としているリチャードだが、騎士たちを中心に流される悪評については、さすがに思うところがあったらしい。やや挑発的な態度で、片方の口角を持ち上げる。
アルトンはどこか気まずげな表情で、「ああ」と頷いた。
「当該の騎士は一様に厳重注意を受けている。加えて、一年間の減俸と奉仕および二週間の謹慎が言い渡された」
「なるほど?」
「騎士団には平民や下位貴族が多い。公爵家の人間である妻を侮辱したのだからもっと大事にすることもできたが、それは騎士団にとっても魔術師団にとってもよくない。なので、あくまでも騎士としての処分ということにさせてもらった」
女性騎士率いるあの騎士たちの多くは平民である。
ルイーズが公爵家の人間であることを鑑みると、あのように侮蔑的な行為はその実、牢屋にぶち込まれても仕方のないものなのだ。
――おそらく何も考えてはいなかったのだろうけれど。
リチャードは仕方ないなというように肩を竦め、「ま、それなりだな」と答えた。
「で、ここにはその報告に?」
そして、続けて質問を投げかける。
わかっているだろうに意地が悪い――。
部屋の隅でポットにお湯を注いでいたエメルダは、つい白けた視線を向けそうになってしまった。その一方で、ルイーズは作りものめいた微笑を浮かべたまま夫を見つめている。
「妻に、会いに……」
それとは対照的に、アルトンは顔を強張らせた。
所在なさげに視線を彷徨わせたあと、おずおずとした様子で勧められた椅子に浅く腰掛ける。
エメルダが紅茶の入ったカップを差し出すと、そちらをちらりと見もせずに、緊張した面持ちで「申し訳ない」と呟いた。
(うわお、びっくりするほどの美形……)
心の内で『クズ男』と揶揄していても、それとこれとは話が別である。
雄々しくも、まるで精巧に作られた人形のよう。いや、彫刻といったほうが正しいかもしれない。
エメルダはリチャードとルイーズのカップもデスクに置いてから、自身も元の位置に着席した。
「あー、いや、その……師団長殿」
奇妙な沈黙が落ちる中、アルトンが唇を震わせる。にもかかわらず、「ん?」とすっとぼけた表情で小首を傾ぐリチャードは、非常に面白そうだ。
そんな師団長の愉快犯的な言動は今に始まったことでもないので、ルイーズは横目にそれを見ながら、口の中でため息を吐いた。
「妻と二人で話をさせていただきたいのだが……」
そもそも、アルトンは副師団長に用意された研究室を訪ねてきたつもりだったため、リチャードとエメルダがいること自体、予想だにしないことであった。
「いやあ、お前さんたちがしっかり話すのは五年振りだろう? 二人きりより、第三者がいたほうがスムーズに進むんじゃないのか?」
「……いや、しかし」
「それに、俺とルイーズは私的なことでもなんでも打ち明ける仲だしな。ルイーズのことならなんだって知っている。お前さんが気になっているであろう五年間のことだって、話してやれるかもしれない」
「師団長、誤解されるような言い回しはやめてくださいませ」
「ほらな、お前さんの前だとこんなふうにツンツンしているが、実際はただの魔術馬鹿というか、親馬鹿というか……」
「まあ! 親馬鹿でなく、アリスはまさに天才。あの子ったら、あの歳でもう見事な礼を習得したんですのよ。すでに一人前の淑女と言えましょう」
売り言葉に買い言葉というようなルイーズの言葉に、リチャードがはっと息を漏らす。
「アリス……」
初めて聞く名前だが、それがいったい誰のものなのかは想像に難くない。
「――それが俺の娘の名前か?」




