14 五年振りの帰宅
「お帰りなさい、アルトンお兄さま!」
――出鼻を挫かれた。
そう思ったのは、馴染みのある、しかし疲れているときにはやや耳障りな甲高い声に出迎えられたときだった。
「……アニエス?」
思わぬ歓待に、アルトンはしばしその場に立ち尽くす。確かに彼女――アニエス・メレ・コラーサ男爵令嬢とは、領地が隣接していることもあって旧知の仲である、が。
一般的には晩餐も終わろうかというこの時間に、他家にいるなどとは考えづらい。それに、この五年の間に彼女は文官になったと母からの手紙で聞いていた。
つまり、今日も今日とて王宮で職務にあたっていたはずなのである。にもかかわらず、ここにいるということは、仕事が終わったあとにわざわざ訪ねてきたのだろう。――何をしに?
「まあ、アニエスが出迎えてくれたというのにつれないこと」
アルトンが訝しげに眉根を寄せていると、ひやりとした空気が漂ってきた。
はっとして部屋の奥を見る。母親のカサンドラ・シンディ・バルニエが涼やかな表情をして立っていた。
「母上、ただいま戻りました」
声が掠れてしまったのは、従兄弟から複雑な話を聞いたからだ。
外でのみならず、内でも常に完璧であった母。ルーファスは常にそれに懐疑的であったらしい。まだ何か隠していそうな雰囲気ではあったが、訊ねてみたところ、いつもの笑みでのらりくらりと躱されてしまった。
「あー、アニエスも……」
「ええ、お帰りなさい」
顔を綻ばせたアニエスがアルトンの腕を引き、ソファーに座らせる。さも当然とばかりに隣に腰を下ろしたアニエスの手をやんわり外し、アルトンは母親に向き直った。
「妻はどこです?」
帰国直後で処理が追い付いていない今、わざわざ早めに仕事を切り上げて家に戻ってきた理由など、これでしかない。
「妻……?」
不思議そうに目を瞬かせたあと、アニエスは「ああ!」と手を打った。
「妻を名乗っているあの人ね!」
「……妻を名乗っている?」
「だってそうでしょう。現に、バルニエ公爵邸には住んでいないのだし。社交界では名ばかりの次期公爵夫人だと噂されているわ。まあ、貴族としての務めを放棄しているのだから当然ね」
言葉尻に感じる刺々しさに、アルトンは知らず目を細めた。社交界に明るくないとはいえ、アルトンとて生粋の貴族令息である。あまりに婉曲な言い方でなければ、それなりに空気を読むのは得意だった。
「そのことですが」
ひとまず昔馴染みは無視することにして、再び母に視線を向ける。
「ルーファスから聞きました。随分前から妻は別に暮らしているそうですね」
確かめるようにそう言うと、カサンドラは「それがどうかした?」と訊き返した。まるでなんとも思っていないというかのように。
「なぜそんなことに?」
「知らないわ」
「……『知らない』?」
「だって、あの娘が勝手に出ていったんだもの」
息も切れ切れな状態ではあったが、ルーファスにはなぜこんなことが起こり得たのか訊ねてみた。しかし「知らない」と、その回答は実に期待外れなものだった。
聞くところによると、妻が王宮に上がるようになったのは公爵邸を出たあとだったそうで、それまでのことはルーファスも噂話程度にしか知らないのだという。
優美な動作で紅茶のカップに口を付ける母を見つめながら、「なるほど」とひとつ頷いて。
「では、彼女は今どこに?」
まさか、公爵家ともあろうものが、いくら名ばかりの妻とはいえ輿入れしてきた女性の出奔を黙って見ているだけであるはずがない、と思っていたのだが――。
「さあ? わたくしの関知するところではないわね」
戻ってきた答えに、ぎょっとする。
「それは……どういう意味です?」
自然、声が低くなった。
「あなたこそ、どういう意味なのかしら? あの娘は身勝手にも公爵家に嫁ぎ、あなたがいなくなったからと出ていった。妻としての役目を果たさないのに、公爵家の一員だと認めるわけにはまいりません。それならアニエスのほうがずっといいわよ」
「アニエスは関係ないでしょう! つまり、妻は公爵家が所有しているタウンハウスや別邸にいるわけではないんですね?」
まあ、とカサンドラが片眉を動かす。
なんでもない状況なのに、声を荒げたのが癪に障ったようだった。さすが王妹というべきか、元王女というべきか、マナーには人一倍敏感なのだ。
完璧な淑女たるもの、簡単に感情を悟らせてはいけない。現在の国王と話している様子を見かけたことはほとんどないが、幼いころからの教育で徹底的に叩き込まれたのだろう。
「母上」
静かに微笑んでいる母に強く呼びかける。
カサンドラは唇に弧を描いたまま、仕方ないわね、というように小さく息を吐いた。
「あなた、まさかあの娘のことを気にしているの? もう出ていった娘でしょう。あとは離縁するだけの」
「離縁……?」
「隣国で任務にあたっていたあなたを捨てて、ここを出ていったのよ。彼女には次期公爵夫人としての素養も、覚悟もないわ」
「……それは」
まだ妻から直接話を聞いていない。
まずは身内と向き合ってからだと考えていたアルトンは口を噤んだ。以前までの自分なら、迷わず母の言を信じていたことだろう。
しかし、今はルーファスの話を聞いたばかりだ。手放しに鵜呑みにするわけにもいかず、かといって人伝に聞いた話だけで母に厳しく当たるわけにもいかない。アルトンは何か苦いものでも飲み込んだような顔をして、喉を鳴らした。
「それに、ねえ、お兄さま。次期公爵夫人でありながら、家のことも顧みず、男の人と張り合うように働くなんてはしたないと思わない?」
ふと、アニエスが口を挟む。
「俺……私は今、彼女が次期公爵夫人に相応しいかどうかの話はしていない。互いの気持ちがどうであれ、正式にバルニエ公爵家へと嫁いできた妻が、いつ、そしてなぜ邸を出ていくことになったのかと聞いている。たとえ彼女のほうから出ていったのだとしても、バルニエを名乗る者が外で問題を起こせば家に傷が付く。それなのに、母上が彼女の居所を把握していないことなどあり得ない」
確かに、母と昔馴染みの話を聞く限りでは、次期公爵夫人としての素養に欠けていると思われても仕方のないことだっただろう。
しかし、アルトンの知る妻は内気ながらも責任感が強く、主張するのは苦手でも努力は怠らない、そんな女性だった。愛する妻をこうも悪し様に糾弾するところを見ると、やはり何かあったのだと思わざるを得ないのである。
「母上」
低い声が空気を震わせた。
「私が彼女のことを手紙で聞くたび、あなたはいつも『変わりない』と言っていましたね。でも、聞くところによると私たちの間には子どもまでいるという。とても『変わりない』と言える状態ではありませんが、どういうことです?」
「まあ、そんなに怖い顔をして」
細い指先を口元に当て、カサンドラがころころと笑う。それはいつもどおりの微笑であったが、こうなってみると場にそぐわない、あるいは不気味といっていいのかもしれなかった。
重苦しい空気が漂っているはずなのに、カサンドラはまるで少女のように微笑むだけだ。それは空気を読んでいるというよりも、そうする必要がないとわかっている絶対的勝者の笑みである。
「一緒に暮らしていなくとも、王宮に仕えているあの娘に何かあればすぐにわかるわ。誰からもそのような話は聞かないもの。だから『変わりない』と書いたのだけれど、何か可笑しかったかしら?」
「せめて、彼女が家を出ていったことぐらいには触れるべきでは? 子どもがいることさえ、私は――」
「そうよ! あの人、お兄さまがいないからって他所に子どもを作ったんだわ!」
会話を遮られて、カサンドラは不愉快そうに眉根を寄せた。その一方で、アルトンはその内容に息を呑んだ。
「なにを……?」
――動揺に声が掠れる。
「だって、お兄さまがいない間に妊娠して、子どもを産んだんだもの。不貞の末の子どもだって世間でも噂になってるわ。離縁するには十分な理由じゃない。悪いのは向こうだと思えば、お兄さまがわざわざ罪悪感を持つ必要はなくなるし……」
「アニエス、それくらいにしてちょうだい」
アルトンは咄嗟に否定しようと口を開いたが、その前にカサンドラがぴしゃりと言ってのけた。
「先ほどから少し、お行儀が悪いわね」
温度感を持たせず告げられたそれに、アニエスは「でも」「だって」と反論する様子を見せる。だが、それ以上は続かなかった。
「あなたが気にする必要はないわ。――どちらにしろ、あの娘が戻ってくることはないんですもの」




