13 知らされなかった事実
厳格でありながらも、他人を許す寛容さを持ち合わせているバルニエ公爵夫人。
夫との仲は良く、後嗣であるアルトン・ジョンズ・バルニエは己の力のみで、その地位を確立した。
彼女の人生を見れば、まさに『完璧』という言葉が相応しいだろう。
だが、少し観察してみれば、彼女がそれだけの人間ではないということがわかる。
「まあ、実際に隊長の母親がそそのかしたのかまではわかりませんが、あのあとのアンナがバルニエ公爵邸を訪ねたのは事実ですね」
口の中で飴玉を転がしながら、ミケルが言った。
「いや、しかし……なぜ母がそんなことを?」
平民が軽々しく貴族の邸を訪れるはずはない。
複雑な思いで話を聞いていたアルトンの顔から、血の気が失せていく。ルーファスは「さあ?」と首を傾げてから、話を続けた。
「それはわからない。でも、少なくともルイーズを疎ましく思っていたのは確かだね」
顔色をなくしたまま、アルトンが険しい表情を浮かべる。
「は?」
「え? だって……ええ? そうなの?」
従兄弟の反応にきょとんと目を瞬かせたルーファスだったが、すぐに半笑いで「うそおー」と気の抜けた声を漏らした。
「お前、彼女と話し合ったほうがいいよ」
――まあ、たぶんもう手遅れだと思うけど。
付け足すように言われたそれは囁くような音量だったので、一瞬聞き間違いかと思ってしまったが、珍しく困ったような顔をしているところを見ると、そうではないのだろう。
しかし、どんな意味だったのか訊き返す前に、ルーファスは話題を切り替えた。
「そういえば、あの女は確か『手紙ひとつ寄越さない』とか言っていたね。それについてはどう思う?」
「どう、とは?」
「五年間もまったく手紙のやり取りがなかったんだろう? 隣国でひとり頑張っている夫に対して、酷い仕打ちだとは思わないかい?」
「いや、まったくというほどでは……。最初のほうは送られてきて――」
言葉の途中で視線が彷徨う。
そして、不自然に口ごもった。
(そうだ。最初のころは送られてきていた。でも、仕事が忙しかったのと、隣国の生活に馴染むのに必死になっていて時間が取れず、もう少し落ち着いてからゆっくり読もうと……)
自分用に用意されたデスクの上に保管していたのは覚えている。だが、そこまでだった。封筒を開けた記憶も、内容を確認した記憶もない。
ならば、いったいあの手紙はどこへ行ったのか――。
「アルトン?」
知らず、おそろしい表情を浮かべていたのだろう。
ミケルが「ひぇ」と間抜けな声を上げている。
「……読んだ記憶がない」
意図したものよりずっと絶望的な声だった。妻を愛していると言いながら、手紙に返事をしなかったどころか、開封すらしていないのだ。
「なら、最愛の妻からもらった手紙を捨てたということ? それなら逆にお前が酷い夫ということになるね」
「そ、んなわけないだろう!?」
思わぬ質問に一瞬詰まってしまったが、それだけは言い切れる。あとで読もうとわざわざ保管していたぐらいなのだから、間違っても破棄してしまうわけがない。
皮肉げなルーファスの言葉に、アルトンは打ちのめされた気分になっていた。――手紙が来なくなったのは、自分のせいでは? と。
「そのあたり、実はルイーズから少しだけ聞いてるんだよね」
「……彼女は、なんと?」
暗澹たる気持ちで訊ねる。聞きたくはなかったが、そうしたからといって状況が良くなるわけではないだろう。
「しばらく手紙を送っても返事がなかったから、途中からやめてしまったと」
「ああ……」
アルトンは思わず喘いだ。
結婚したばかりの妻を放置しただけでなく、手紙ひとつ寄越さなかったのだ。酷い夫だということが証明されてしまった。
「ちなみに、何通ぐらい送られてきていたかは覚えているかい?」
「三、四通程度だったと思うが……? 確か、最初の一月ほど」
「なるほど。ならやっぱり、どこかでルイーズの手紙を破棄していた人間がいると思うよ」
「……は?」
途端に放出された剣呑な雰囲気に、ルーファスは片方の口角を持ち上げる。爽やかな第三王子にしては珍しく、いかにも悪そうな笑みである。
「ルイーズはあれで責任感がとても強い。彼女が『しばらく』と言うのであれば、おそらく数カ月は送っているだろうね」
あくまでも彼女の性格を考えたうえでの憶測にすぎないが、間違っていない自信はあった。ルーファスは一瞬口を噤み、小休止を取ったあと、「それに」と話を続けた。
「お前たちの帰国が決まってから、彼女に依頼して僕からの手紙を送ってもらったんだけれど、届いている?」
「……いや」
アルトンがゆるゆると首を振る。
それはつまり、誰かが意図的に手紙を撥ねていたということだろう。妻と夫の仲を引き裂こうとした、なによりもの証拠である。
「いくら筆不精だとはいえ、お前が手紙に返事ひとつし書かないなんて可笑しいから、これはもしや誰かが意地悪しているのかなと思ってさ。単なる確認作業のようなものだったんだけど、実際、届いていなかったようだね。あの女が手紙を管理していたというのなら、あの女の仕業だろう。五年間もやり取りがなければ、普通の夫婦なら愛情なんてなくなるだろうし」
あくまでも普通の夫婦なら、だが。
「愛情が、なく、なる……」
アルトンがさっと表情をなくした。
悄然とした雰囲気を纏った従兄弟の姿に、「まあ、奥方は夫婦だとすら認識していないと思うよ」と追い打ちをかける気にはなれず、ルーファスは視線を逸らした。
気を取り直すように、一度咳払いをする。
「ええと、それについては後日確かめるとして。怪しい彼女を追ったところ、バルニエ公爵家とつながっていることがわかったわけだけど。あの女がルイーズを排除しようとしていたのを考えると、利害が一致したというところかな?」
「……利害が一致?」
「お前の母親とだよ」
ほとんど呆然とした様子でオウム返しをしたアルトンに、ルーファスは呆れたように息を吐いた。
はいはい、とミケルが手を上げる。
「社交界では有名らしいですね! 隊長の母親と奥さまの仲の悪さ」
バルニエ公爵夫人と次期公爵夫人。
この二人が輿入れ当初から馬が合わなかったのは有名な話だ。五年が経つ今はことさら関係が悪化し、水と油とも言われている。
ミケルの正確すぎる情報に、アルトンは絶句した。しかし、すぐになんとか声を絞り出す。
「し、しかし、母からの手紙には『こちらは大丈夫だから帰ってこなくていい』と……」
なるほど、とルーファスは頷いた。
「だから五年間、一度も帰国しなかったわけだ」
次の瞬間、派手な音が鳴った。
立ち上がったアルトンの膝がテーブルに当たり、上に置かれていたグラスを薙ぎ倒したのだ。幸い空だったので、零れてはいない。
「え、ちょっと、どうしたんですか?」
無言の、しかし迫力のある横顔を見つめ、ミケルがおっかなびっくり声を掛ける。動揺しているのか、暗褐色の瞳に浮かぶ瞳孔が完璧に開いていた。その眼光といったら、まさに獰猛な肉食獣のそれである。
「ルイーズと話をしたいなら、魔術師塔に行くことをおすすめするよ」
気の利いたアドバイスを与えたつもりだったが、本人にはうまく伝わらなかったらしい。鋭い眼光はそのままに振り返るので、ルーファスは肩を竦めた。
「まあ、彼らは仕事の邪魔をされるのが嫌いだから、相手にしてくれるかはわからないけれどね。それに――彼女は家に帰ってもいないんだし」
「……は? 家にいない?」
「うーん、手紙が届かないのが意図的であるなら、たぶんこれも知らされていないんだろうけど。彼女、もうずっと前から公爵邸を出て暮らしているよ」
「あ、それも噂で聞いたなあ」と、ミケルが小さく零した。
「家を出て……? なんで……?」
混乱のあまり口調がやや幼くなったアルトンに、ルーファスがさらなる爆弾を落とす。
「――うん、お前の娘と一緒にね」
長きにわたり、血のつながった子どもがいることさえ知らなかった気分はいかばかりか。
呼吸困難に陥ったかのように口をはくはくさせたアルトンは、いよいよ何も言えなくなってソファーに崩れ落ちた。




