09 娼婦≠娼婦のような女
厳密に言うと、『手紙ひとつ』というのは語弊があるのだが。
「そ、それは……っ」
くしゃりと表情を歪めて口ごもる女性騎士を眺めながら、そう言えば、と思い出した。
少し前――それこそ、夫が帰還する旨を知らされる前。ルーファスから不思議なお願いをされたのだ。
お前の夫に手紙を送ってくれない? と。
第三王子からの願い事など滅多にないことであるうえに、もう数年ほども夫への手紙など書いていなかったので、ルイーズは首を傾げた。
結局、理由を訊ねても「いいから、いいから」といつもどおりの笑みを浮かべるだけ。腐っても王族である男には逆らえず、仕方なく言われたとおりにしたのだった。
「ん?」と淡い笑みを浮かべるルーファス。表情を確認しないまでも、その優しい声色に恐怖を煽られたのか、女性騎士の肩がわずかに震えた。
「わたしが……国から届いた書類や手紙類を管理していたからです」
少し躊躇った様子ではあったものの、ゆっくりと答えていく。本能的に『間違えてはならない』と感じたのかもしれない。
「うん、正直者は嫌いじゃないよ」
「……はっ」
「それで、夫人からの手紙がないから、二人は不仲なのだと思って横やりを入れたくなったわけだ。離縁を勧めていたぐらいだから、夫人の後釜に座ろうとしたということかな?」
「それは……」
「まあ、正直、お前とこの男がどんな関係でも僕には関係ないんだけど。でも、ねえ。この男はこう見えて、王家の血に連なる者なんだよね」
「は――」
「母親は国王陛下の妹。次期当主としてバルニエ公爵家を継ぐ者ともなれば、当然、陛下からの承認が必要になる。つまり、惚れた腫れたとかじゃなく、公爵家にとって有用な人材でなければ認められないということなんだけど」
無論、ルイーズの生家である伯爵家とて、貴族の中に埋もれてしまえばそう目立つ存在ではないのだが。社交界のパワーバランスを考えると、むしろだから丁度いいと言っていい。
その後、ルイーズが個人的に認知されるようになったのは、さすがに計算外だっただろうとも。
「お前はなにか、陛下の覚えがめでたくなるような功績を上げたのかい?」
「それは知らなかったなあ」なんて肩を竦めるルーファスに、ルイーズは思わず白けた視線を向けた。しかし、すぐに「あ、そうそう」とこちらを向いたので、慌てて表情を整える。
澄んだ翡翠色の瞳が、ルイーズを通り越してアルトンを見つめた。まるで宝石のようなそれの中には、わずかながらも悪戯めいた色が滲んでいる。
「この者たちによると、健全な男であるお前は彼女に寂しさを慰めてもらっていたということだよ。――体で」
「……は?」
いかにも困惑しきった声だった。
――まあ、そうなるわよねえ。
思わず心の中で共感しながら、同時に、愛している男に自身の嘘を知られるのは恥だろうとも思った。
夫婦の仲を壊してやろうと思っただけだった出来心が、まさかここまでの大事になるとは考えてもいなかったのだろう。彼女が政略結婚が身近にない身分だとするなら、結婚はあくまでも当事者同士の問題で、互いに納得すれば終わる話なのだから。
だが、残念なことに、ここにいるのはアルトン・ジョンズ・バルニエ。ルヴェリエの筆頭公爵家の後嗣なのである。
「慰め……?」
「うんうん。奥方とは五年も会っていなかったのだから、それも仕方ないさ。僕も男だからね、一応はわかっているつもりだよ」
「……ちょっと待ってくれ」
「でも、そうであるなら、特定の女ではなく娼館でも利用したほうがよかったのではないかな? お前、見目だけはいいから、こうして勘違いされてしまっても文句は言えないね」
「いや、え?」
「ああ、そういえば夫人も昨夜の舞踏会で『娼婦のような女』と言われていたな」
「殿下、蒸し返さないでくださいませ」
流れ弾に当たり、ルイーズは咄嗟に片眉を吊り上げた。演技がかった表情で、つん、と顔を背けたので、ルーファスは苦笑しつつ肩を竦めた。
たとえて言うなら、兄と妹。そんな雰囲気が二人の間に漂っていた。
「だいたい、『娼婦』であることと『娼婦のような女』であることは、まったくの別物でございます。ひとくちに娼婦といえども、仕事として誇りを持って取り組んでいる方もいらっしゃいましょう。旦那さまは――ええと、あまりよく存じ上げないのですけれど……噂によると、とても真面目で勤勉な男性だとか。ならば、娼館を利用して一時の快楽を求めるより、しっかり愛情を注げる女性に癒やされたいと思っても不思議ではございませんわ」
「は、っ……」
「待て、頼むから待ってくれ。俺はこの五年の間、他の女を抱いたこともなければ、娼館を利用したこともない!」
「あら?」
苦しそうに顔を歪めたルーファスが再度体を折り曲げるのと、バリトンの声がすべてを否定するのはほぼ同時だった。心底愉快そうに笑っているということは、ルーファスはそれを知っていたのだろう。
(なるほど。確かに妻に向かって『娼館に行っていた』とは言いづらいかもしれないわ)
それにしても、と改めて夫の姿を眺める。
――いざ顔を見たら、いったいどんな暴言を吐き出してしまうか不安だったけれど。
思いのほか、冷静でいられるものだ。そもそも自分に夫がいるという実感がないからか、怒りも悲しみも湧いてはこない。
無遠慮にじろじろ見てくる妻に、アルトンはやや複雑そうな表情を浮かべて口を開いた。
「口先だけで信じてくれと言っても難しいかもしれないが、神に誓って不実なことはしていない。俺にとって大事なのも、大事にしたいのもあなただけだ、ルイーズ」
「……んん?」
脈絡なく紡ぎ出された言葉に、ルイーズは淑女の仮面を放り投げそうになった。いや、もうほとんど放り投げていたと言っていいだろう。
明らかに噛み合っていない会話。ルーファスはそれに気づいていながらも、この場で説明するつもりにはならなかった。
五年もの間、すれ違っていたのだ。どんなに言葉を尽くしたところで、すぐに解決できるわけではない。
「はいはい、夫人が大事なのはわかったけども」
ふう、と息を吐き出したルーファスが、ちらりと騎士たちを見やる。今度はもう射すくめるようなそれではなかったが、視線を向けられた気配を感じ取ったのか、騎士たちの間に緊張が走った。
跪き、頭を垂れたままの騎士たちを見回して、ルーファスは一度頷いた。
「よし、決闘を続けよう」
「は……」
――あ、危なかったわ……!
「はあ?」と声を上げそうになり、しかし寸前で踏み止まる。そして、そうできた自分を褒めてやりたい気分になった。
いくらそれなりに気心の知れた仲だとはいえ、腐っても彼は王族。実際に血のつながりがある夫よりはるかに、礼節をもって接しなければならない相手なのである。
そこだけは勘違いしてはいけない。
「決闘、でございますか?」
ルイーズはあえて怪訝そうな表情を作り、小首を傾げた。
「殿下と夫の会話から、騎士団内での私闘はやはり禁じられているものと理解いたしましたが……」
「うん、騎士団内なら処罰対象になってしまうだろうね」
「……なるほど?」
言外に『お前は騎士団員ではないだろう』と言い含めながら、ルーファスがにっこりと笑う。彼の普通が微笑なので、そのわかりやすい表情の変化に胸の中で「うわああああ!」と叫んでしまった。
「さあ、お前たち。騎士と魔術師とではどちらが強いと思う?」




