08 バルニエ隊長と女性騎士
刹那、騎士たちの纏う雰囲気ががらりと変わった。ルイーズも思わず口を噤み、訓練場へとつながる渡り廊下から足早にやってきた男に視線を向けた。
(あら、まあ……)
そして、なんてタイミングの悪いこと、とげんなりする。
「バルニエ隊長……!」
それは確かに、舞踏会で『この人かも』と感じた人であった。――つまり、夫。まごうことなき、アルトン・ジョンズ・バルニエである。
半ば反射的に柱のほうに視線を向けると、こちらのことは知ったことではないとばかりに、体を折り曲げて笑っている姿が目に映る。腹黒王子はいつから笑い上戸になったのか。いや、昔からだ。
「訓練場で騎士たちが騒いでいると報告が入った。他の隊の奴らはわからないが、俺とミケルは会議だからと第一のお前らには待機命令を出しておいたな」
大股で素早く近づいてきた男は、不可解そうに眉根を寄せた。それから、一度周囲を見渡し、改めて騒ぎの中心地に視線を向けると――鋭く隙のない暗褐色の瞳を大きく見開いた。
騎士らしく鍛え抜かれた体躯に、鋭利な顔立ち。『中性的な』と形容されがちな第三王子とはまた異なったタイプではあるが、王族の血が入っているのは間違いないらしい。
「ルイーズ……?」
低い声に名前を呼ばれて、ぎょっと目を剥いたのは本人である。自分のことを覚えていたとは思いもしなかった。
ルイーズはふよふよと視線を彷徨わせたあと、小さく息を吐いて、ゆっくりと地面に降り立った。久々の浮遊だったので、足元がふらついてしまう。その様子をじっと見つめていたアルトンがまるで吸い寄せられるように近づいてきたので、ルイーズは思わず身構えた。
「なぜ、ここに?」
まるでここにいることを責めているような口調だが、その視線はどこか茫洋としている。
「ええと……?」
「それは僕が説明してあげようじゃないか」
夫の態度を掴みかねていると、柱の向こう側からひとりの青年が姿を現した。そういうふうに育てられているのだろう。その姿を認めた騎士たちが、一斉に跪く。次期公爵夫人を名乗っているルイーズはそこまでしなかったが、貴族のマナーに則って美しい礼でそれを出迎えた。
「やあやあ、面白いものを見せてもらったよ」
楽しそうに肩を揺らしながらも、顔を上げる許可は出さない。第三王子と気安い仲だと知られているルイーズとアントンだけが、この場で発言を許されたようだった。
「嫌ですわ、殿下。意地悪なことをなさらないでくださいな。初めからそちらにいらっしゃったのでしょう。わたくしが困っているのを笑って見ているだなんて、まったく趣味が悪いこと!」
「おや、もしかして助けてほしかったのかい? もっと困っているように見せてくれれば、あるいはそうしてあげたかもしれないけれど。どうやらお前は、ジョセフィーヌ二世の話に夢中だったようだからね」
「まあ! お気に召したのでしたら、なによりですわ。騎士のみなさまは聞き上手な方たちばかりで……旦那さまと別れろと決闘を申し込まれたときはどうしようかと思いましたけれど、思いのほか盛り上がってしまいましたわ」
「――なんだと?」
思わずといった様相で唸り声を上げたのはアントンだ。ひんやりとした空気が流れ込む。第三王子との会話の中で、ちくちく嫌味を挟むつもりだったルイーズは、その険のある表情に小首を傾いだ。
(まさか、怒っているのかしら?)
だとしたら、なぜ――。
そこまで考えて、はっとする。
なるほど確かに『決闘を申し込まれた』と口走ったのはよくなかったかもしれない。いくら第三王子に目こぼしをもらったとしても、認めてしまえば『決闘だった』と言わざるを得ないのだ。
ここが騎士団専用の訓練場であることから、『これはトレーニングの一環だった』とすれば誤魔化しようがあったかもしれないのに。
やってしまったわ、と頬に手を当てると、ルーファスの口から再度空気が零れ落ちた。
「アルトン、奥方がなにか勘違いしているようだよ」
「……勘違い?」
「お前は夫人が決闘を受け入れたことに怒っているの?」
「は? いや、まあ、確かに規律は大事だが……お前が最初から見ていたというのなら、俺がわざわざ口を出すことでもないだろう」
「だよねえ。これでわかった?」
「え?」
目を瞬かせたルイーズに、「うん、わかっていないね」と苦笑するルーファス。珍しく腹黒さを感じさせない純朴な表情であるが、それが一層、ルイーズの警戒を強める結果となった。この王子が、何もないのに出てくるわけはないのである。
案の定、改めて騎士たちに視線を向けたルーファスの表情は、感情がごっそり抜け落ちてしまったかのように冷酷だ。
「さて、お前たちには直答を許そう」
それなのに声だけが優しい。そのギャップに、ルイーズは内心震えあがった。直接の回答は許すのに、顔を上げる許可を出さないのがなおさら怖い。
「上の許可を得ないどころか、アルトンやミケルの不在を狙って夫人を強制的に連行し、離縁を強要したうえに、規律で厳しく禁止されているはずの決闘を申し込んだ、その意味は? もちろん、然るべき理由があってのことだろう? 騎士団の中でも精鋭とされる第一小隊がすることなのだから」
最初、とは言ったものの。
どうやら本当に『最初』から見ていたらしい。「回答を」と促すルーファスの酷薄な表情に、さすがのルイーズも騎士たちが哀れになってしまった。
しかし、無駄なことはしない第三王子だ。これも必要なことなのだろう。
「わたし――わたし、はっ」
怯えを露わにしながらも、口を開いたのは件の女性騎士だった。他人に責任を押し付けない。なるほどそういった部分は確かに騎士らしいと言えるのかもしれない。
「ああ、王族に嘘を吐いたらどうなるかわかっているね。先ほど夫人が発言したと思うが、僕が最初からそこで見ていたというのを忘れないように」
すべてを目撃していたというのに、あえて自分の口から言わせようとするとは。
女性騎士は頭を垂れたまま、掠れた声を漏らした。
「バルニエ隊長と……離縁していただこうと」
「なぜ?」
「わた、わたしが、バルニエ隊長に懸想していたからです」
真実を受けて、アルトンが小さく息を呑む。ルイーズが横目にその様子を窺うと、まさか、とでも言いたげな表情を浮かべていた。魔術を通して彼らがプラトニックな関係であることはわかっていたが、この反応を見るに、そもそも部下以上の気持ちは持っていなかったのだろう。
「お前たちは夫人に声を掛けるときですら、逃げられないよう複数名で取り囲み、連行する際は両手首を握り締めてここまで引きずってきたね。まるで罪人のような扱いだったと思うが、それについては?」
「……奥さまは――バルニエ隊長とうまくいっていないと。別の隊の者からそう聞いて、隊長のことを大事にしていないという事実に、どうしても思うところがありました……」
「まあ、確かに夫人とこの男がうまくいっていないのは事実だろうね。五年間も顔を合わせなければ当然だ。でも、うまくいっていないからといって、夫人が夫を蔑ろにしていたということにはならないと思うが」
「でもっ、隣国で職務に励んでいる夫に、手紙ひとつ寄越さない奥さまなんて……!」
女性騎士は弾かれたように頭を持ち上げ、しかし、ルーファスの表情を目の当たりにして、すぐに顔を青ざめさせた。薄く形のいい唇が緩やかに弧を描く。
「手紙ひとつ寄越さない、ねえ。どうしてお前がそんなことを知っているんだい?」




