5-0 闇に溶けゆく(☆)
昼間は青く、美しい雄大な森も、夜には全てを呑み込むかのように暗く、ぽっかりとした闇が広がる。
夜目のきく動物たちの鳴き声が、木々に反響して幾重にも聞こえる。
夜の冷えた空気を纏う静かな森の中を、ひたすら走り抜ける小さな影があった。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……!」
今にも倒れそうな荒い息遣いが、足音に合わせて響き渡る。
時には躓き、時には転び、地面に伏しながら、それでも影は足を止めない。
時折後ろを振り返り、常夜の闇を瞳に映す。それが闇であることに安堵しながらも、すぐにまた恐怖が心をかりたてる。
逃げなくては。
怖い。怖い。怖くて仕方がない。
すでに全身泥だらけになりながら、地の果てまでも走りゆく。
影は、まだ幼さの残る一人の少女だった。
少女は走りながら、右の手首を左手でぐっと握りしめる。
もう何度目だろうか。だが、左の掌に伝わる硬い感覚は、残酷なほど変わらない。
そこにあるものが受け入れられずに、か細い悲鳴が口から漏れる。
そのとき、三度足が縺れる。少女はそのまま勢いよく地面に転がり、膝に熱と鋭い痛みが走った。
心臓が弾けそうだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、やっとの思いで四つん這いの姿勢にまで身体をを起こすが、耳に届いた梟の羽音に肩を強張らせる。
地面に跪いたままの足が、小刻みに震えている。
懸命に体重を支えて駆け抜けてきた足は、もう限界だった。ただ背後を振り返り、来た道の先をじっと見つめながら、暗闇をとらえるべく瞳孔を開き切る。
静寂の中で、冷たい風がねっとりと頬を撫でる。
少女はその場に腰を落とすと、弾む呼吸を整えながら擦りむいてしまった膝を抱える。
だが、直後に右の手首が淡い光を放った時には、膝の傷は瞬く間に塞がった。
「きゃあっ!」
思わず自分の膝から手を離し、反動でしりもちをつく。鈍い痛みが腰まで響いたが、怪我をしたところでどうせすぐに癒えるだろう。
少女は両の掌をじっと見つめる。自分の体がどうなってしまったのかわからないのだ。
「ああ……っ!」
右の手首を掻きむしる。どう足掻いたところで、掻き傷が増えるだけだ。
痛みに少し心を落ち着かせると、肩を抱きながら縮こまる。また恐る恐る背後を振り返るが、変わらず闇が広がっているだけだった。
「…………」
どうやら何も追いかけてこないらしい。ようやく安堵のため息をつくと、地面に倒れ込んでしまった。
虚ろな目をしながら、仰向けの姿勢になる。そのとき、今更のように暗い雲間から月が顔を出した。
「……もう。もう遅いのよ。何もかも」
ぽつりと、唇を小さく動かす。
今の少女にとっては、淡い月の光さえ眩しく感じる。
「けど、守りたい。あたしが、あたしだけが、あんなところから!」
月に向かって、ゆるゆると手を伸ばす。
この空のように、どれだけ遠く離れても、たとえ手が届くことはもうなくとも。それでも、諦めるわけにはいかない。
胸の上下の振れ幅が、少しずつ小さくなる。身体の震えは、少しずつ収まっていく。
後悔など意味はない。その通りだ。ただそれだけなのだ。
もう逃れられないのならば、それでいいではないか。
だから。
「……そうよ。望むところよ」
数回、深い呼吸を繰り返した。
胸に手を当てて、少女はゆっくりと身体を起こすと立ち上がった。
まだ闇は怖いけれど、そう遠くない先に、溶け込めるほどに黒く染まるだろう。
この世で一番怖いこと。それに比べれば何もかも、大したことではないのだから。




