4-19 レイン
石に隠される形で台座に満たされていた水は、脈打つかのように波打つ。次いで追ってきた水の音は、ケイが結界の中で何度も聞いた音と同じだ。
だが、これが精霊であるとはにわかに信じられなかった。
元の姿などあったものではない。小さな指輪に収まってしまうほどの少量の水を、一体誰が精霊などと呼ぶだろうか。
「まぁ、精霊の身体の質量と霊力の大きさは必ずしも比例しないから」
ユキヤは苦笑を浮かべる。
事実、手のひらほどの小さな精霊であっても、甚大な霊力を持つものも珍しくない。逆もまた然りだが。
「きっと最初から自分の姿が分からないわけじゃなかったんだろう。もしかしたら元は人の姿をとっていたのかもしれない。けれど、長い年月をかけて少しずつ、摩耗して形が無くなっていくように忘れてしまったんだと思う。元の姿を知る人間なんてもう、この世には存在しないから」
ユキヤはふと、視線を湖に向ける。
傾きかけた太陽は少し光をやわらげて、水面をいっそう美しく際立たせる。
遠くで泳いでいた水鳥が翼を広げると、魚の影が驚いたようにすいと動いた。
「僕と初めて会ったとき、ここと同じような水際で結界に取り込まれてね。その時はもう弱って消えかかった精霊だったし、僕が本質に触れる前に力尽きてしまった。僕はこれを精霊使いとして命を繋いだけれど、以来ずっと、僕に何かを訴えようと暴れていなくなって。でも主である僕を結界に取り込めるはずがない。僕らはお互いに危害を加えることはできないから、仮に僕に攻撃力があったとしても、誰かに頼むしかなかったんだ。僕の魔力に頼ってまで生きながらえたいと願ったはずなのに、皮肉な話だよ」
「元の姿……」
ケイはぽつりと独り言ちる。ユキヤはそちらを振り返ると首を傾げた。
「どうしたんだい、ケイくん」
「結界の中で、俺は水に落ちて死んだ子供を見た。あれは……」
「ああ、それがこれの前世だろうね。ずいぶん深くまで同調したんだね、君は」
ユキヤの驚いた素振りを見て、ケイは訝しげに眉をひそめた。
そして悟る。彼がナオに外からの結界の破壊を指示したのは、ケイが精霊の結界に深く触れすぎて呑まれてしまうのを防ぐためというわけだ。
「元は人間の子供で、たぶん男の子だと思う。水の事故で亡くなったらしい。そして精霊として生まれ変わった」
「生まれ変わった、って……それじゃあ」
「そうだよ。精霊は元は人間だ」
ユキヤは静かに頷く。ケイは息を呑んだ。
ナオは口元を両手で押さえて目を見開いている。ハルトは顔を顰めた。
「僕はこれをレインと呼んでいた。仮初めの名前だけれど。死んだ人間の魂が自然界の魔力に取り込まれ、精霊として誕生する。色々調べたけれど、精霊に人間だったときの記憶はないようだ」
「……じゃあ、その人間はいつまで経っても……」
言いかけて、ケイは口を閉じた。ユキヤの顔を見れば、聞くまでもないことだったからだ。
この世に縛り付けられたまま、精霊として生き続ける。
記憶を無くして、ただ生まれた場所にのみ関心を示し、守るために存在する。
生まれた場所がある限り。もしくは精霊使いの魔力の供給がある限り、老いることも死ぬこともない。それが精霊だ。
ナオとハルトも何も言わない。
同じような表情を浮かべて目を逸らした彼らを見て、ユキヤは唇を吊り上げた。
それは吃驚、というよりは、果然。
「そうさ、君たちもスピリストなら少しくらいは考えたことがあるんじゃないかい? どうして人型をとる精霊が多いと思う? 感情があると思う? 流暢に人の言葉を操れると思う? 結局は人と精霊、ルーツは同じなのさ。それなのに人がああも精霊を異形として拒絶し、時に虐げるその様はいっそ清々しいまでに滑稽だろう。魔力を持った人間を拒絶するのだって、結局は同じだ」
今にも笑い出しそうな勢いで、ユキヤは声高に言う。
一度落ち着かせるように瞑目すると、ユキヤは肩をすくめた。
そして、幾分声を落として再び口を開く。
「だけど少なくとも僕は君たちに感謝している。レインはこれでようやく、自由になれる」
ユキヤは手首を少し捻ると、指輪の水を揺らす。優しく弄ぶかのように、数回円を描いた。
「ケイくん、これを壊してくれないかい」
「え……」
じっと指輪を見ていたケイは、弾かれたようにして顔を上げる。
そこには、切なげに目を細めてケイを見下ろすユキヤがいた。
彼の言葉を、ケイは戸惑いつつもゆっくりと噛み砕く。そこに込められた想いを自分なりに感じ取ると、ケイは目を伏せた。
「ごめんね。君にこんなこと頼んで」
「……いや」
ケイは目を開ける。真っ直ぐにユキヤを見据えると、小さく首肯した。
「――それが俺の任務ならば」
指輪の上でちゃぷちゃぷと揺れるわずかな水。
しばらくそれを見つめるが、やがて意を決して指輪を手にとる。
「殺してほしい」と。
そう精霊に懇願されたことも、以前の任務であった。
精霊の死は、この世に二度目の別れを告げる。
与えられた霊力という鎖を断ち切って、羽ばたくための唯一の方法。
あの森の精霊は、残された最期の霊力の放出に巻き込まれ、森が滅びてしまうのを防ぐためにそう告げたのだと思った。だが、もしかしたらそれだけではなかったのかもしれない。
そんなことを思い出しながら、ケイはその手に冷気を纏う。
小さな指輪をぐっと握りしめる。冷たい自分の手の平にほのかな温もりを感じたところで、強い冷気を込めた。
ぱきん、と小さな音が響く。
拳を開くと、指輪の中の水は冷気によって凍り付き、罅が入っていた。
「……ありがとう。そして、さよならだ。レイン」
ユキヤが静かに言う。直後、応えるように、指輪の中の氷は光の粒子になって溶け始めた。
光はゆっくり舞い上がる。ユキヤは顔を上げると、それをじっと見つめていた。
「何もかもが僕の自己満足なのかもしれない。けれど、してあげられることは他に思いつかなかった。こんな僕を許してほしい」
最後の一粒が空に消えていくまで。ユキヤはまばたきもせず、それを見届ける。
ケイは何も言えず、ただユキヤの横顔を見ていた。
ケイの手の上で、金色の指輪が転がる。
冷たい金属の感触だけが、そっと軌跡を描いて掌を撫でた。




