4-17 真実を映して
「ユキヤ……」
「やぁ。話すのは久しぶりだね」
ユキヤはにこやかに答える。そんな彼に、精霊は明らかな怒りの表情を見せた。
迸る霊力に、精霊の服や髪が靡く。
かなり消耗しているように思えたが、その霊力は膨大で、ケイは息を呑んだ。
そんなケイに気付いたのか、ユキヤは否定するように手を横にひらひら振ってみせた。
「ああ、別に驚く必要はないよみんな。幻覚を操るには魔力や霊力の消費が大きいから、絶対量が他の属性よりも多いだけなんだよ。結界を張れなければ何もできないし、恐れることはない」
「貴様の仕業だろう……ユキヤ!」
ナオと同じ高い声で、精霊は叫ぶ。
「さぁ、どうだろうね」
ユキヤは顔色一つ変えない。
どこか悲しげで、憐れむように目を細めて、さくさくと草を踏みしめる。
水際ぎりぎりまで来ると足を止め、ユキヤは両手を広げてみせた。
「もう気が済んだかい? お前はいつも僕を結界に引きずり込もうとして、失敗してどこかへ逃げようとして、でも主からは離れられずに戻って来て、その繰り返し。もし伝えたいことがあったのなら、ケイくんにならきっと伝えられたんじゃないかい? 彼は僕とは違う。『冷氷』はお前と同じ水の属性を持っているから」
「そうか……さいしょから、こいつらは……」
「そうだよ。お前をこうやって結界の外に引きずり出すため。安全策として外から破壊できるよう、彼女に攻撃を指示したのも僕だ。彼をお前のようにさせるわけにはいかないだろう」
ユキヤはナオとケイをそれぞれ指先で示してみせる。
精霊は唇を噛み切りそうな勢いで歯を鳴らしている。だがユキヤの言う通り、二度にわたって結界を完膚なきまでに破壊された後では身動きが取れないのだろう。あのような大規模な結界をそう何度も作れるはずはない。
ケイはそんなユキヤの後姿を見て、無意識に自身の右手首に目をやる。
そこにあったのは、淡い青の精霊石、『冷氷』の色。
ナオは問答無用の力技で結界を壊してしまうし、ケイとハルトの二人ならば、精霊の攻撃対象も分散される。そして二人を比較した場合、より精霊の属性に近いのはケイだ。
精霊を叩き潰すだけなら、ナオの能力だけで事足りただろう。そうしなかったのは、それだけでは何も分からないと知っていたから。
「さぁ、終わりにしよう。“レイン”」
その澄み切った声音は、残酷ささえ感じられた。ユキヤはゆっくりと右腕を前方に掲げる。
風にはためく長袖からちらりと見えたのは、手首に密着した太い金輪と、静かだが凄烈な魔力を放つ、微量の色が入り混じったような白い石。精霊石だ。
ユキヤのぼさぼさの髪や白衣が大きく靡く。
迸るその魔力をどうするのかと見守っていたら、彼は不意にそのまま振り向いてケイを見た。
「じゃ、頼むよケイくん」
「俺かよっ!?」
急に名指しされ、ケイはその場でずっこけた。
ナオとハルトも目を点にして見守る中、ケイはひとまず喉まで出かかった何万語を呑み込むと頭をかく。
「……指輪を探して倒してほしい、ってそういう意味かよ。くそ」
「ごめんね。だってそう言っておく方が、きみだってより深くあれを探ろうとするだろう? 近づこうとするだろう? それがあれを救うんだよ。だから、頼む」
ユキヤは切なげに目を細めて、唇を吊り上げた。胡散臭い男だが、少なくともその言葉に嘘はない。ケイは短く嘆息すると、きゅっと顔を上げた。
精霊に近づこうと足を踏み出したところで、何かに阻まれて進めない。ケイの背後にくっついたままのナオのせいだ。肩にかかるナオの指を外すと、彼女はきょとんと眼を丸くする。
「ケイ?」
「ナオ、ちょっと」
ケイは振り向くと、ナオにぽつぽつと何かを言う。ナオは目を意外そうに目を瞬かせると、すぐに頷いた。
「うん、持ってるけど?」
「貸してくれ」
「ふゅ? うん、わかった」
言って、ナオはショートパンツのポケットをまさぐる。出てきたのは、掌に収まるくらいの大きさの、ピンクのラインストーンが飾られた丸いものだ。
ケイはそれを受け取ると、一度ぐっと握りしめる。
二つ折りのそれを開くと、それを精霊の方へ見せるように掲げた。
精霊は目を見開く。
実際にはそれに光が反射して、円形の眩しい何かにしか見えなかったのだが、何かが本能的なところに触れた気がして、精霊は身を乗り出した。
ナオとハルトは、そんなケイを訝しげに見守っている。
ケイが持っているもの。
それは、ナオの手鏡だった。
「お前の姿はみんな逆。つまり、鏡写しの状態で俺の前に現れた。目に映ったものをそのまま再現しているわけじゃないってことだ」
真っ直ぐに精霊を見据えると、ケイは凛とした声で謳う。
小柄な少女の姿がさらに小さく縮む。怯えたように背中を丸め、ひざまずいていても、その視線だけは鏡から離れない。
「それならいつどうやって俺たちを写し取ったのかは知らないが、例えば最初の結界の中にたくさんあった水たまりとかか? 俺たち全員が水に映ったのはその時くらいだ」
言うと、ケイは鏡を閉じた。ぱちんと弾けるような音とともに、精霊に向かって拳を突き出す形となる。
わなわなと震える精霊を見るに、仮説は当たっているらしい。
精霊はゆるゆると腕をもたげた。ナオと同じ赤い精霊石が、ナオとは逆の右手首の上できらりと光る。
それは自らがこの少女の偽物であると裏付ける。精霊は絶望的な目をした。
今にも泣きそうに瞳を揺らすと、それでも精霊は何かを求めるようにその手をさまよわせる。
それはケイの手の中にある鏡なのだろうか。
精霊を見て、ケイは切なげに目を伏せた。
頭の中で繰り返される水の音と、少年の高い声。
ただひとつの言葉が、ケイの胸を締め付けた。
「ぼくのすがたをかえして」
どうすればいいのかなんて、本当はケイにも分かっていなかった。
ただ、あの少年が、水底に消えていったあの子供の心に深く触れた気がして、悲しくて。幼い命が消えたその瞬間が、頭から離れない。
彼の姿など、ケイが知るはずもない。
だが、彼は確かにあのとき、自らの笑顔を映していた。
忘れたのなら、今度は本物を映すことができたなら。
一縷の願いを込めて、ケイは目を開けた。
「――お前の姿が映るとしたら、それは今のお前の足元だ。お前が死んだときと同じように」
「……水面? ぼく……?」
精霊は下を向く。
ぺたりと平たく座り込んだ姿勢で、水面を覗き込む少女の姿がそこに映し出されていた。
ただ、水面は太陽の光を反射して輝き、風に揺れてその姿をあやふやにかき混ぜる。顔の造作は特に曖昧で、ぼやけた像。
だが、それでも精霊はその姿を焼き付けるかのように目を大きく見開いて動かない。やがて溢れ出た涙が頬を伝って落ちて、また水面に波紋を作る。
小さな身体は震えている。自分の顔を撫でるかのように、そっと水面に手を触れた。
湖上の精霊の姿までもが不安定に歪む。それでも、精霊は水面から目を離さない。
今にも輪郭が崩れそうになったそのとき、突如として精霊の身体は眩い光に包まれた。
強烈な光は一瞬にして広がり、視界を奪う。
針のように突き刺さる霊力を感じながら、ケイは腕で目を庇う。
ぴちゃん、と。
雫が落ちた音が聞こえるとともに、高い声が辺りに響いた。
「――やっと会えた。きっとこれがぼくのすがた」
それは確かに、結界のはざまで聞いた、幼い子供の声。
かえしてとひたすら嘆いていた声は、今確かに穏やかで柔らかく広がると、静かな余韻を残して消えていった。




