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4-16 お姫様だっこ



「――今だ」



 そのとき、ケイを揺り起こすようにして、妙に落ち着いた男の声が響く。

 ぐったりとした身体は急に軽くなり、ガラスが割れるような音が響く。

 一瞬にして水がなくなった。浮力を失った身体が急に宙に放り出されて、ケイは否が応にも意識を取り戻した。

 またしても綺麗な湖畔の景色が目に映る。先ほどと同じく俯瞰の状態だ。それを認識した直後、ケイは重力に従い真っ逆さまに落下していった。


「う、うわぁ!?」


 一気に近づいてくる地面に、ぎょっと目を見開いて悲鳴をあげるだけで精一杯だった。

 全身を叩きつけられる寸前、真下に小さな影が回り込んできて、ふわりとした何かに受け止められた。


「ケイ! だいじょうぶ!?」


 甲高い女の子の声が振ってくる。

 続けて見慣れた少女が覗き込んできているのに気付くと、ケイは呆然と口を動かした。


「な……ナオ? 本物……?」

「よかった、怪我はない? 痛いところない?」

「あ、ああ……」


 ナオの早口に、ケイはとりあえず頷く。そこでようやく、今自分が置かれている状況を認識すると、今度はぴきりと硬直した。

 うつ伏せに落下した姿勢からハグをするように受け止められ、一瞬で背中と膝の裏に手を回されたかと思うと、ナオの心配そうな顔と正面から視線がかち合っている。そして彼女の背景には綺麗な青空。

 要するに、お姫様だっこの状態だった。

 スリル満点の落下とは別の意味で、心臓が早鐘を打つ。

 これぞまさに、塔から助け出され、運命の王子様に受け止められたお姫様。


「ナオ頼む、降ろしてくれ……これは色々耐えられない……」

「ほへ?」


 顔を朱に染めて、ケイは懇願する。いくら何でも女の子に軽々と抱き抱えられるのは嫌だった。腕力の有る無しは別にして。

 対するナオは彼の安全を隅々まで確認しないと気が済まない様子だったが、羞恥に耐えかねて顔を覆ったケイを見てようやく承諾した。

 ゆっくりと解放されると、地に足がつく。

 また幻覚か、それとも本物か。もはや全てが怪しく見えて、何が本当なのか分からなくなってくる。

 頭を抱えて唸りそうになったところで、ナオの他にも二つ人影がこちらを見ていることに気付いた。


「おおすごい、ナオちゃんって素早い上に力も強いんだね。攻撃特化だと身体能力の強化もやっぱりすごいのかなー」


 この訳の分からない状況を持ち込んだ張本人たる依頼者、ユキヤがへらへらと笑いながら、のんきに間延びした声で賞賛している。その隣ではハルトが何か言いたげに腕を組んで立っていた。

 ナオはまだ眉を下げたまま微笑む。ケイを見て安心したような表情をみせた。

 だんだん冷静になってくる。

 なぜ彼らは揃いも揃って、ケイを待ちかまえていたかのように佇んでいるのだろう。

 足を踏み出そうとしたところで、ズボンが擦れる音がする。自分の手足や身体を見てみると、頬の傷以外の変わったことや異常は特にない。濡れていないのだ。確かついさっきまで水中で溺れていたはずだったのだが。

 問いつめる対象は決まっている。


「おいこらおっさん、この状況説明しろよ」

「あだっ」


 ケイはつかつかとユキヤに近づくと、ちょうどいい高さにあった彼のネクタイを思い切り下に引く。ユキヤはひっくり返った短い悲鳴をあげて仰け反った。

 ハルトにもやられていたので本日二度めの光景だった。遅れてナオもちょこちょこと追ってきて、ケイを宥めつつ言った。


「あのね、さっきは結界の中に閉じこめられたの、ケイだけだったんだ」

「はぁ?」


 ユキヤの胸ぐらを掴もうとしていたケイは、ナオの衝撃的な言葉に動きを止める。


「さっき結界に取り込まれる寸前、オレとナオはユキヤさんに腕を掴まれたと思ったら、お前だけが消えたんだよ。精霊に触れるには、一人の方がいいからって」


 続けたのは、憮然として黙っていたハルトだった。

 あまりのことに、ケイは口を半開きにしたまま硬直している。脱力した肩の上で、服が重力に従ってわずかにずり落ちた。


「なんで俺……? っていうかそれならせめて先にそう言っとけって……」

「だいじょうぶ、それに関してはオレがもうシメといたから」

「あははは……」


 ふん、と鼻を鳴らしたハルトに、ナオが苦笑いを返す。

 ケイは半眼をしながら首を動かすと、頭をさすっているユキヤの姿がある。さすがにたこ殴りにはしなかったのだろうが、ハルトが何かしらの制裁を加えたのだろう。おそらく懲りてはいないだろうからもう数発殴っても良さそうだが。


「それで。こんなことになった理由はあいつに聞けばいいのかな?」


 ハルトの目が鋭く一点を捉える。魔力による光が凝縮し、彼の手には一振りの剣が握られた。

 遅れて気付く。精霊の気配を感じたのだ。

 ハルトが剣を向けた先を追うと、湖の上で不自然に空気が揺らめいているのが見えた。


「なんだろう。また結界を作ろうというわけではなさそう?」


 ハルトは目を凝らす。

 よく見ると小さな色の粒子が蠢いていて、小柄な人影を形成していく。

 水面にひざまづいている姿勢で現れたのは、左右が逆のナオの姿だった。


 ――精霊だ。ケイは目を少し細める。


 壊れた結界と一緒に消えてしまったのかと思っていたが、そうではなかったようだ。対峙したときのままの容姿で、しかしひどく疲弊した様子でうなだれている。


「ぴぃょわぁっ!?」


 岸にいる方のナオは文字通り飛び上がって驚くと、見事な俊敏さでケイの背後に隠れた。甲高い奇声はいつものナオだ。

 やはりこっちは本物と思って良さそうだな、と肩越しに彼女を振り返りながら思ったケイだった。どうにも結界のせいで疑り深くなってしまう。

 いきなり自分とそっくりな姿が目の前に現れたら驚くのも無理はないが、ケイの肩にめり込んでいるナオの指が痛い。


 だが、彼女の手はとてもあたたかい。


「ねぇケイ、あれ何?」


 ケイの背後から恐る恐る顔を出すと、ナオは心底気味が悪そうに言う。


「……精霊だ」

「ふえ? 指輪の?」

「ああ」


 迷わず頷いたケイに、今度はハルトが振り向く。


「あれが? 状況がよくわかんないんだけど、なんでナオみたいな格好してんの?」

「ナオだけじゃない。俺にも、お前にも化けていた」

「化けていた、ね。あんなのすぐに偽物だって分かるじゃん」


 冷たく言い放つと、ハルトは剣を持っていない方の手をすいと掲げる。

 また魔力が凝縮していって、綺麗な短剣が何振りかふわふわと彼の周りを漂った。

 確かに、今は精霊の気配がケイにもはっきりとわかる。同じ精霊の霊力に取り込む結界の中では、本体の気配が紛れて分からなかったのだろう。鋭いハルトならすぐに、精霊が左右逆の姿だということに気付いたのかもしれないが。

 精霊はゆっくりと顔を上げる。

 大きな茶色の目が憎々しげに吊り上げられて、精霊はただ一人を強く睨みつけた。


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