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1-8 静かな森


「おー! 中もめっちゃ広いなこの森!」


 まだ幼さを残した少年の高い声が響く。

 森の中へと入ったハルトはもの珍しそうにせわしなく辺りを見渡していた。任務だというのに楽しそうで、何か動物でも出てこないかと期待さえしているかのようだった。

 ケイはそんなハルトの隣で、こちらも辺りを一通り見て警戒していた。真っ先に飛び込んでしまったことはやや勇み足だったものの、彼は己の判断が間違っていなかったことをすぐに悟る。


「気配が強いな。森の中と外じゃ大違いだ」

「そだね。さっきの風と同じものだ」


 ハルトが続けて頷く。

 ナオがいつまで経っても追いかけてこないことを訝しんでいたケイだったが、外から彼女の悲鳴が聞こえて来ても知らんぷりをするハルトを見てなんとなく状況を察した。切羽詰まった感じではなく、女の子が虫にでも遭遇した時のような声だったので彼女は大丈夫だろう。

 外は外でやるべきことはある。ナオもおそらくすぐにその役割に気づき、遂行してくれるだろう。ケイが瞬時にそう思ったのは、長年の付き合いの賜物だった。


「それにしてもやけにあっさり中に入れたなぁ。あの様子じゃてっきりすぐに風とか吹いてきて追い出されるかと思ったんだけど」


 言うと、ハルトはふと踵を返して歩き始める。

 森の入り口はすぐ後ろに見えていたはずだった。しかし今は鬱蒼とした暗い木々が広がっているだけで、それらしきものはどこにもない。諦めてまた奥へと進み始めると、ハルトは眉根を寄せた。


「逆だったみたい。ここから出るのに苦労しそう」

「そうだな」

 

 ケイは短く答える。二人の口調に焦りはない。想定の範囲内だった。

 二人は歩きながらきょろきょろと視線を動かして辺りを探る。奥に行くほどに強くなる気配に警戒を強めたが、何者かが飛び出してくるような様子はない。


「静かだな。風の音さえ聞こえない」


 そう呟いたケイの声でさえ、数十メートル先にまで響き渡りそうなほどにしんと静まり返っている。

 彼らの規則的な足音だけが辺りに響き渡っていた。


「ねぇケイ、ここ昼なのに暗いよねぇ。太陽どこ行ったんだよって感じ」


 ふと足を止めると、ハルトは頭上を振り仰ぎながらそう言った。

 ケイは追って上を見上げる。木々の葉が幾重にも重なっているため太陽光を遮断しているのかと思ったのだが、それにしては不自然なほどに暗いのだ。僅かな木漏れ日が危うく足元を照らしているにすぎず、この場だけ夕刻になったかのよう。

 無造作に立ち並ぶ木々はどれも大木というわけではない。幹はそこそこ太いが枝が細く貧弱だ。何かに森全体が覆われているのではないかとさえ思えてくるほどだった。


 ——そう、何かに。


 ケイは手近にあった一本の木の枝を掴むとがさがさと揺らしてみる。はらはらと木の葉が舞い降りて足元に積もる。ガサガサと乾いた音が異様に大きく辺りに響いた。


「暗いだけじゃねぇよ。これだけの森に動物や虫がまったくいない」

「あー、だから町の人たち言ってたんだ。森の動物たちを精霊が食ってるって?」

「精霊がんなことするわけねぇだろ」

「そーだね、でもこれではっきりしたよねぇ。ほら」

「ああ」


 意味深に目を細めたハルトに、ケイは頷いてみせる。

 ケイはまた辺りを見ると同時に神経を研ぎ澄ませた。

 警戒を強める。虫や動物たちの代わりに、先ほどから小さな高い笑い声が風に混じって聞こえてくるからだ。

 見えない壁に反響しているかのように音が渦を巻いている。出処はわからない。


「”霊力”だ。俺たちの周りをぐるぐるしてる」

「うん、こりゃ明らかに精霊の気配だね。オレにはこの辺全体が囲まれてる感じがするけど……ん?」


 ハルトも警戒を強めて辺りを探る。気配の場所を探して彷徨うように歩いていたがふと、彼は足を止めて顔をしかめた。

 訝しげな表情のハルトに、ケイは眉をひそめた。


「どうした?」

「いや、なんか小さい子供の声が聞こえなかった?」

「子供? いなくなった奴らか?」

「どーだろ。なんか遠くの方で叫んでるみたいな……?」


 言って、ハルトは目を凝らして辺りを見るが、周囲に誰かがいる気配も人影もない。


「ケイ、もっと”発動”を強めろ。あいつ……シルキのこともあるし、誰かいないか探してみようぜ」

「おう」


 ケイは短く答えると右手を胸の高さに掲げた。直後、風に無造作に遊んでいた彼の茶髪や衣服が時間を止めたように不自然に静止する。まるで柔らかい風を纏っているかのようにふわりと広がって留まっていた。


「——発動」


 ケイの右手首にある青い石が輝きを増した。薄暗い森の中で、その眩い光が彼の顔を照らしている。


「オッケー。これでこっちの気配が強くなった。もしかしたら向こうから来てくれるかもね」


 ハルトは不敵に笑うと、こちらは左手を掲げた。ケイのものと色違いの橙色の石が手首で光を強める。それがまるで暗闇の中の道標になったかのように、ハルトは一方向に目を向けた。


「たぶんこっちだ。まぁここで立ち止まっててもしょーがないし、進んでみようぜ」


 言い終わる前に、ハルトはさっさと歩き始めた。この町に来た時と同様に好き勝手動こうとするハルトに対し文句を言おうとするも、ケイはそれを飲み込んで続いて行く。がさがさと落ち葉を踏みつける音が辺りに響いた。

 ケイは足元の落ち葉を蹴り上げてみる。昨日あたりにでも雨が降ったのだろうか、落ち葉は少し湿気っているようだった。土もやや柔らかく、スニーカーの底の形が綺麗に投影されている。

 ケイはそこで違和感を覚える。やたらと落ち葉が多いことに気がついたのだ。このあたりの地域は常に暑い気候であり、これほどの葉を落とす種類の木はさほど存在しないはずだ。

 そこまで考えると、ケイは振り返った。


「おいハルト、何かおかしくないか」

「ん?」


 ハルトは足を止めるとケイを振り返る。二人分の足跡を凝視しているケイを見て、ハルトも何かを察したようだった。


「ここはもう森の内部に近い。こんな広い場所で都合よく見つけられるとは思わないが……少なくとも入り口付近には、少しくらい荒れた土があってもよかったんじゃないか?」

「確かにね。公園からあの一本道を通ってオレらとそう変わらない時間、ほぼ直前に森に入ったシルキの足跡くらいあってもよかったよね。オレらが見落としたとは考えないでおくとして」


 ハルトは一度言葉を切る。そこで何かに気づいたかのように目を見開いた。


「まぁもしあいつが自分たちしか知らない秘密の入り口から入ったとかなら別だけど。もしくはじいちゃんの言うことを良い子に聞いて森へ入っていない可能性もあるね。だけどもし……足跡を残せなかった、消されていた、それとも」

「それとも?」


 ケイが反復する。口調とは裏腹に、その表情は怪訝なものではない。ケイの顔を見てハルトは不敵に笑った。

 彼らの目の前には踏み荒らしてきた道ができている。ハルトはそれを指差して、すぐに手を返すと指を上に向けた。


「そうだねぇ。例えばだけど、空でも飛べたらどうかな」


 ハルトの凛とした声が、曇天に突き抜けるかのようだった。

 あらかじめ決めていたかのように、ケイとハルトは寸分違わぬ動きで空を勢いよく振り仰ぐ。

 頭上の空気が不自然に渦を巻いている。どこからかずっと聞こえていた小さな笑い声が、急に近くなった。


「——出てこい、精霊」


 空を睨みつけて、ケイは鋭い声で言い放つ。それに応える代わりに突如として吹き荒れた風が地面に垂直に叩きつけられた。二人は思わず顔面を腕で守ったが、視力を奪われた一瞬にも満たないその隙に幾つかの人影が顕現した。

 ケイの頭上。ぎりぎりで手が届かないほどの高さを保ち、人影は楽しげに宙を舞う。

 高い笑い声が絶えず響いている。それが何重にも重なり、時折高らかに激しく空気を振動させている。三半規管を揺さぶられて眩暈がしそうだった。

 声の主である”彼ら”は子供の姿をしていた。しかし明らかに人間ではなかった。全身が青く半透明で、特に手足はほぼ透けている。さらに耳の先が三角にとがっており、口からは小さな牙らしきものが覗いていた。

 薄暗い上に絶えず動き回っているので把握しにくいが、気配からは全部で三体いるようだ。

 三体とも見た目は同じくらいの年齢だ。判別がつきにくいが、おそらくすべて男の子に見える。八〜十歳くらいだろうか、ちょうどシルキやさらわれたという町の子供たちと同じくらいだろう。



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