4-14 かえして
いつの間にか目の前に佇んでいたのは、大きな瞳を揺らめかせたナオだった。
小さな花弁のような唇をほんの少し尖らせて、ナオは茫然としているケイをじっと見つめている。そんな彼女の右手には、ハルトが普段持っているのと同じ剣が握られており、ゆっくりとケイに切っ先を突きつけた。周囲に転がっているのとは違って、彼女の剣は新品同様に綺麗だ。
「ナオ? どうしたんだよお前……なんでその剣」
上擦った声で言いつつ、ケイはそんな彼女を見て違和感を覚える。いや、ハルトが使っている剣を彼女が持っている時点で、もうどこから突っ込めばいいか分からないのだが。
ハルトらしき人影の後ろ姿を見た時もそうだったが、何かがおかしい。この少女もナオではないのだろうか。
彼女は何も言わない。ただ細い左足を後ろに引くと体勢を低くし、片手で剣を構えた。
そして地面を蹴ると、その俊足をもって一気にケイへと詰め寄る。
鋭い突きを繰り出したその剣筋はいっそ見事で、正確にケイの眉間をめがけて飛んできた。ケイは氷の槍でどうにかそれを受け止める。ケイの冷気にあてられたのか、小さな氷の欠片がキラキラと光を反射しながら舞い散った。
そのまま飛び退りながら地面を滑ったナオがゆっくりと顔を上げる。
ちゃぷん、という水音が聞こえたかと思うと、彼女は表情を変えることなくまたケイに飛びかかった。
金属がぶつかった鋭い音を響かせると、ケイとナオはお互いに手にした武器を交わらせて押し合う形となる。
何という重さだろう。
ケイは歯を食いしばる。彼女のような軽量でここまで剣が重いとは、華奢な見た目に騙されるべきではないが、一体どんな腕力なのだろうか。気を抜けば押し返されてしまいそうだ。
どちらも退くこともなく、ぎりぎりと拮抗する。
「…………して」
ふと、ナオは唇を小さく動かした。何かを呟いたようだが聞き取れなかった。
「何だ、何て言った……?」
「……えして」
ナオはまた小さく呟く。やはり聞き取れない。
答える代わりと言わんばかりに、彼女の右手にぐっと力が込められた。さらに重みを増した剣を必死で押し返したところで、ケイはようやく違和感の正体に気付く。
――そして、迷いはなくなった。
ケイは一気に魔力を強めると、渾身の力で槍を薙いでナオを弾き飛ばした。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴とともに、ナオは地面を転がった。辺りに散らばっている剣が彼女の身体を傷つけたのか、動きに合わせて鮮血が飛び散る。
「……っう……」
呻き声を上げながら半身を起こしたナオの喉元に、ケイの槍が突きつけられる。
ナオは恨めし気な目をしてケイを睨みつける。だが、ケイはそれ以上に鋭く彼女を見下ろした。
「何のつもりだ。何が言いたい。答えろ、精霊」
「……なぜ」
「お前はナオじゃない。ナオには剣なんて扱えねぇし」
「…………」
「それに、あいつは左利きだ」
「…………!」
ナオは、いや、精霊は目を見開く。右手に持ったままだったハルトの剣をぎゅっと握りしめた。
「お前はナオじゃない。そして俺でも、ハルトでもない。だからその姿を今すぐやめろ」
ケイは畳みかけた。精霊は答えない。
だが、今になってまじまじと目の前のナオの姿を見ると、逆なのだ。剣を握る彼女の右手首には赤い精霊石がある。髪型も左右逆だった。遠目だったが、ハルトの後ろ姿がどこかおかしかったのも同じ理由だろう。
ケイの冷気によって辺りが冷やされていき、氷がぱきぱきと軋む音があがる。座り込んだままの精霊の足が凍り付き、地面に縫い付けられている。その姿を形作っているものがやはり水であるということが容易に想像できた。
身動きが取れなくなった精霊は悔しげに唇を噛むと俯いた。言葉もなく、ただわなわなと震えている精霊に、ケイは眉をひそめる。
「おい、聞いてるのか……」
「ぼくは、この女でもないのか」
「は?」
精霊はぽつりと言葉を落とした。
俯いたままの精霊の頭頂部が、まるで水の波紋を描くように揺らめいた。
それに合わせて、ぴちゃんと水滴が落ちた音が聞こえた気がして、ケイは瞠目する。
音の振動を伝えるかのように波が広がり、空気がたわんだ気がしたのだ。
「ぼくはいろんな景色を映してきた。そしていろんな人間を映してきて、いろんな人間になった。だけど、そのどれもがぼくじゃなかった。どうしてなの?」
精霊がゆるりと顔を上げる。
ナオの姿を借りた大きな瞳が揺れている。頬を伝う滴の流れに合わせて、光がゆらゆらと動いた。
涙を一粒、地面に落として、精霊は言う。
「――かえして」
ナオの良く通る高い声が、弱々しくくぐもる。
水滴が落ちる音が響く。
ぴちゃん、ぴちゃんと。何度も何度も。だんだん間隔が短くなっていく。
ケイは眩暈に似た感覚に襲われる。音に合わせて視界が歪んで、三半規管をぐらぐらと揺らした。
静かに侵食していくようにして、音が広がっていく。
「うあっ……」
ケイは突然激しい頭痛に襲われ、頭を抱えた。
冷気が途切れ、氷の槍は霧散する。
精霊の自由を奪っていた氷は溶けて、足が地面から剥がれた。精霊はゆっくり立ち上がると、おぼつかない足取りで一歩、踏み出した。
「思い、出せない。ぼくは、どんな顔をしていたの? どんな声ではなしていたの?」
目を見開きながら、震える小さな手を、ケイに向かってのばす。水音は絶えず、響いている。
揺れる視界の中できらきらと散る色の粒子が行き来していて、ケイは目に映る景色がぼやけていることに気付く。
細い指がゆるゆると近づいてきて視界を覆っても、あまりの頭痛に意識を失わないように歯を食いしばるので精一杯だった。
縋るように、悲痛な声で。精霊は言った。
「ぼくはだれ? ぼくのすがたを、かえして」
その指先がケイの喉元に触れそうになった時、ついに辺りの景色が弾けて散った。




