4-11 氷と氷
重力を感じない。
ふわふわと、ゆらゆらとして宙に漂う感覚が全身を包み込んだ。
知らぬ間に命を奪われ、身体を失くしてしまったのだろうか。
そう錯覚するほどに、前後左右、何の気配も感じない。ただ無の空間に浮遊しているようだ。
色の粒子が集まって、次第に何かの形を作りあげていく。
先ほどは突然視界が真っ赤に染まって度肝を抜かれたが、今度は少しずつ明るくなっていく。それに合わせて、ケイは身体がゆっくりとどこかに降りていっていることに気づく。
そして再び地に足がついたように感じたとき、目の前に新たな景色が映し出された。
「ここは……?」
ケイはふらつく頭を支えるようにしてこめかみに手をやる。三半規管が正常に機能する前に、ケイはぎょっと目を見開いた。
「な、なんだこれ!?」
視界が全体的に白くぼやけて見える。
ケイは思わず目を擦ったが、目が悪くなったわけではなかった。
空は雲を薄くのばしたかのように真っ白で、スニーカーで踏みしめる大地は不自然に彩度が低い。
見たこともない細い葉をつけた木々が左右に別れて隊伍を組み、広く平坦な道を作っている。その真ん中で、ケイは立ち尽くしていた。
どこまでも真っ直ぐなその道は、まるで異世界へつながっているかのように地平線が曖昧だ。まるでその先へと誘われているかのように。
ケイはすぐ右に佇む木に近づく。その枝葉は、よく見れば白っぽいものが付着している。
「こ、氷……?」
幹に触れて、その表面の異様な冷たさにケイは息を呑んだ。
木も、土も、やけに白いと思ったら、無数の小さな氷の粒が付着しているようだった。地面に目をやると、所々に薄い氷の膜を張り、淡い青色の光を反射しているように見えた。まるで水たまりが寒さによって凍り付いたかのようだ。
白く、淡い。手でかき混ぜてしまえば一瞬で消えてしまいそうだ。こんな光景見たことがない。
ほとんど見惚れながら立ち尽くしたいところだったが、そんな余裕はなかった。
「な、なんだ……! 寒ぅ、さっむ!」
ケイは身体を掻き抱くと縮こまる。
涼しい、なんていうものはとうに通り越している。歯が小刻みに震えて頭蓋内で不快な音を響かせるなか、己の吐く息が白いことに気づいてさらに驚愕する。
「なんなんだ!? れ、冷蔵庫かよっ!?」
ひっくり返った声を合図に、ケイはもはや猛犬を前にした子犬のように震え上がった。
なにせ、普段の気候は平均気温が三十度を超えており、一年を通して大きな変動はない。服も腕を出した軽いものしか着たことがない。むき出しの腕が赤く染まっていて、冷たい手で腕をさすったが気休めにもならなかった。十三年間生きてきてここまで極端に寒いと感じたことなどないのだから、どうしたら良いのかわからないのだ。
ついさっきまでうだるような暑さだったのに。混乱する頭を文字通り冷やすと、ケイは本能的に能力を発動した。
「あ……?」
そして呆けた声をあげた。
発動をした途端、寒さを感じなくなったのだ。暑いとまではいかないが、あれほど冷え切っていた手足にじんじんと血流が戻り、丸まっていた背筋も伸びる。
淡い青の光を帯びている精霊石を見つめながら逡巡する。やはり『冷氷』の能力は寒さには強いのだろうか。
先ほどの結界の中ではナオだけ暑さを感じていなかったことを思い出したところで、ケイはようやく辺りに誰もいないことに気付く。
「ナオ、ハルト!」
大声を出すが、虚しく響くだけ。全く人の気配が感じられない。
どこにいるのか、そもそもどこにもいないのか。
指輪の精霊の結界とやらは未知。複数の結界を同時に作ることも、もしかしたらできるのかもしれない。目に映るのは幻覚なのだとしても、痛覚は本物だった。そんなものを操る能力を持つ精霊など、どう対抗すれば良いのだろうか。
それに、もし視認できないだけで近くにいるのだとしても、ナオやハルトがこの極寒の中無事だとは断言できない。焦りはつのるばかりだ。
「くそ、冗談じゃねぇよ……」
焦る心を誤魔化して舌打ちをひとつ、ケイは低い声で呟く。
慎重に辺りを探る。
変わらず妙な気配に包み込まれているだけで、ナオやハルトの魔力は感じられない。
立ち尽くしていたところで何も変わらない。仕方なく、ケイはゆっくりと足を進める。
ひとまずは道の先を見てみよう。前後は鏡写しのように同じ光景だった。どちらの先も見えなかったので、方向転換はしない方向に進む。
細かな氷の粒は、地面に薄いヴェールのようにしてうっすらと積もっている。ケイが歩を進めるたび、さくさくという軽快な音が響きわたる。
冷たい風が頬の傷を撫でるだけで、特に何も起こらない。
先ほどの結界で言うと石が飛んできたように、木が抜けるなり折れるなりして飛んでくるのか等と警戒はしていたが、杞憂だったのだろうか。
だが、歩けども景色は全く変わらない。
ケイは手のひらより少し大きな氷の塊を魔力で作り上げる。鋭利なそれでおもむろに右側の木に傷をつけた。
役目を終えた氷が霧散する。ケイは再び歩き始めた。しかしほどなくしてまた足を止める。
「――やっぱりか」
先ほど傷をつけた木が右側に佇んでいる。どうやら歩いたところで全く進んでいないらしい。これ以上闇雲に動いても意味がなさそうだ。
ケイは右手を掲げる。光が溢れると、細長い氷をかたどった。氷で作り上げた槍状の武器だ。魔力を形にして留めることで、冷気を放出してしまうよりも節約できるのだ。
ケイは体勢を低くして構えると、冷気を纏ったそれで目の前を大きくないだ。
轟音とともに木々が倒れる。冷気が衝撃派となって広がると、倒れた木が瞬時に凍り付く。巨大な氷柱次々と立ちあがった。
「は……?」
あまりの威力に、ケイ本人が呆けた声をあげた。
印をつけた木を試しに切り倒すつもりだったが、想像以上の威力だった。この寒い空間で使う分、能力が強くなっているのだろうか。
そのとき、不自然に背後の空気が震えたように感じた。一瞬だったが、脈打つような波打つような感じだ。
ケイは勢いよく振り向く。だが、誰もいない。足下に大きな水たまりがあるだけで、ケイの足に踏みしめられて水音が鳴る。
波紋を広げて揺らめく水たまりに、ケイの訝しげな顔が鮮明に映し出された。




