4-8 結界
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「いやぁ、参った参った。ナオちゃんって強いんだねぇ」
陸地に引き上げてしばらくしてから目を覚ましたユキヤはしまりのない声で笑いながら、焦げた白衣を豪快にはたいていた。どうやら炎に囲まれ咄嗟に羽織ったらしい。
そういえば彼は何か白い衣類を手に持っていたが、それがこの白衣だったようだ。なぜそんなものを持っているのだろう。ケイにとっては、白衣と言えば医師が着ているのを見たことがあるだけだ。ますますよく分からない男だが、もはや突っ込むのも面倒だったので知らない振りを決め込んだ。
白衣って危険な薬品から身を守るための衣服でもあるから意外と丈夫なんだよー、等とユキヤ本人は脳天気に言っていたものの、ナオは罪悪感から縮こまったままである。
湖に浮いていたおかげで全身ずぶ濡れのユキヤは、せめてもの償いにとナオが起こした火に当たって暖を取っている最中だった。緑鮮やかな湖畔で火を焚くのはやや抵抗があったものの、今度こそ慎重に火加減をすると正座して誓ったことで、ケイとハルトの許しを得て今に至る。
「ってかあんたさ、スピリストのくせしてナオの火くらいどうにかできなかったのかよ?」
ナオの隣であぐらをかきながら、ケイは呆れ顔で言う。
実際、ナオの近くにいたにも関わらず、間一髪ではあったがケイもハルトもどうにか火に飲み込まれるのは逃げおおせた。スピリストは能力発動時、自身の身体能力を瞬時に高めることができる。よほどの実力差や不意打ちでない限り、そう簡単にとらえられるものではない。
ユキヤは焦げた上に濡れてさらにボサボサになってしまった髪を揺らすと苦笑を浮かべた。
「いやいや、スピリストと言っても色々いるでしょ。僕の能力は便利だけど、戦闘では全く使えないんだよ。逆にナオちゃんはかなり攻撃特化でしょ? 気づいた時には視界一面炎一色でどうにもできなかったんだ」
「ご、ごめんなさいっ」
ナオは勢いよく頭を下げた。渾身の一撃を放ったつもりだったがやりすぎてしまった。ハルトに怒られるのも無理のない話だ。
「その割にゃピンピンしてるように見えっけど」
ケイは半目をして呟いた。ユキヤが本当のことを言っているのだとしても、とにかく信用ができない。
ナオの扱う火は小さい火の粉であっても、個々の攻撃力は高い。火加減を間違えたあの業火をもろに食らったとは思えないほどにユキヤ本人はけろりとしており、底知れぬ図太さを感じる。
いや、胡散臭いの一言である。
「いやいや、いいんだよ。話の途中になっちゃった僕も悪かったんだし。きみがあの『結界』を破ったのは事実なんだから」
まだ乾ききっていないシャツをタオルで雑に拭きながら、ユキヤは大して気にもとめていないように軽やかに言う。
「結界っていうものを突破するには二つ方法がある。ひとつは結界の主を倒すこと、もう一つがその空間を形作る力より強い力で強制的に破壊してしまうこと。この場合は後者。君じゃないとできないことだったろう。それが確かめられただけでも、この任務を君たちに依頼した甲斐があったというものだ」
「え、ふえ?」
聞き慣れない言葉の羅列に、ナオはきょとんと首を傾げた。
小動物のようなその仕草に、ユキヤもつられて怪訝な顔をする。
「あれ? ひょっとして精霊の結界見たの初めてかい?」
揃って目を瞬かせている子供たちの反応に、今度はユキヤが目を丸くする番だった。彼らのそれはどう見ても肯定だ。
「……君たちスピリストになってどれくらいだい?」
「えっと……二か月とちょっとです」
ナオが視線を斜め上に向けて答える。
ユキヤは意外そうだったが、納得したのか頷いてみせた。
「そうなのか、確かに日が浅いようだね。でも精霊と出会う任務はあっただろう。感じたことはないかい? 精霊がいる場所で、何か他とは違う雰囲気みたいなのとか。なんか変な感じとか」
言われて三人もまた頷く。精霊の力が強ければ強いほど、はっきりと感じ分けることができる気配は確かに存在する。ハルトは特に顕著だ。言葉に言い表せない、まるで身体の奥に直接触れられるかのような、異質な気配。
「実はそれ、その場所が精霊から漏れ出た霊力でゆるーく包まれている状態でね。その状態が強くなったものを結界というんだ。精霊の持つ力にまるっと取り込まれてしまうといったイメージだね」
「さっきのって精霊のせいなんですか?」
ナオははっと瞠目する。
「ああ。あれは自分の霊力を一定の大きさにとどめることに特化した力を持つ精霊でね、僕らはまんまと取り込まれてしまった。それを君が内側から力づくで破ってくれたおかげで、こうして元いた場所を視認できているというわけだ。すなわち、包み込む霊力よりも君の力が強かったということ。突然周りに現れたガラスの部屋を無理矢理割って出た感じだ。ここは分かるかい?」
ナオはこくりと頷く。
「僕は一応スピリストではあるけれど、僕には力がない。ガラスを叩き割ることがそもそもできなくてね。僕が任務の依頼側だってこと、理解してくれたかな?」
「は、はい。えっと、なんとなく?」
波に呑まれるかのように勢いに負けた感じだった。ナオは思わずまた頷く。微妙に語尾が上がり調子なところが中途半端である。
そんなナオの返答にも、ユキヤは満足そうににっこりと笑う。
ユキヤの右手が、ぽかんと口を開けているナオの頭に優しく乗せられた。ナオは驚いて肩を一瞬跳ね上げたが、すぐにされるがままに俯いた。大きな手で撫でられることなど滅多になく、感じる体温が暖かくて心地いいのだ。飼い主に甘える猫のようにうっとりとしながら、ナオはユキヤをじっと見上げた。
「待て」
ケイの鋭い声が遮る。
「説明が不十分だ。だったらあの空間、結界とやらの中で起こったことは一体なんだったんだよ」
「だから結界さ。ここであって、ここでないところ。ほら、彼女があれほどの火を放った後なのに、何も周りに影響はないだろう?」
ユキヤはすぐにそう切り返す。言われてケイたち三人は今一度辺りを見渡した。確かに、のどかな湖畔の緑は、ナオの業火で焦げたりはしていない。
ケイははっと何かを察して頬に手をやる。あの空間で受けた傷がちくりと痛んだ。
「あの中にいた僕らが受けた攻撃は本物だけど、結界を壊さない限り、この場所は影響を受けない。結界を壊してもなお彼女が周りを焼き尽くしていれば別だけど、そこは大丈夫だったようだし」
「ということは、私たちはずっとここにいたってことですか?」
「そうそう」
ナオがやや身を堅くしながら言ったことに、ユキヤは頷く。
「なら、私たちが見ていたのは」
「うん、幻覚だよ」
こともなげにユキヤは答える。ナオは思わず息を呑んだ。




