4-3 ハルトの挑発
三人は驚いて本当に湖に落っこちてしまいそうになりながらも、揃って勢いよく振り返る。
彼らの背後には、いつの間にか男が一人佇んでいた。
白い長袖のシャツに無地のネクタイをゆるく締め、落ち着いた色のボトムスは痩せ型の体型にフィットしてややフォーマルな印象を受ける。しかし所々しわが目立っており、あまり手入れはされていないようだ。さらに小脇に何か無造作に丸められた布を抱えている。こちらも皺だらけで変な色のシミが所々についていた。裾の長い白い服のようだ、白衣だろうか。あまり白くはないが。
ぼさぼさの黒髪を無造作に掻く。青白い肌に映える無精ひげを生やした見るからにだらしのなさそうな男は、ケイたちに向けてへらっと笑った。
それがとても不気味に思えて、ケイは背中を冷たいものが這うような錯覚を覚えた。
「な、あんたいつの間に……」
ケイは反射的に身構えて言った。それに対し、だらりと腕を下げた男は心外だと言わんばかりに苦笑してみせた。
「いつの間にって……嫌だなぁ、僕はずっとここにいたよ? 君たちが来てくれるのをここで待ってたんだ。呼び出してしまって悪かったね」
「じゃあ、あんたが任務の依頼者……」
ハルトも男をやや睨みつけながら言った。彼がここまであからさまな態度を見せるのは珍しい。ナオはハルトを意外そうに見やると、彼女もまた眉根を寄せる。
男は頷くと、無実を弁明するかのように両手をひらひらと揺らしてみせた。それが余計に得体の知れない存在に思わせて、ひどく胡散臭い。
「……ハルト、気付いたか?」
「いや全く……振り返るまでぜんぜん」
ケイの質問に、ハルトは唇を噛んで答えた。
いくら湖を見てはしゃいでいたとはいえ、仮にも任務の途中なのだ。未知の精霊がいるかもしれないし、最低限周りに気を配るくらいの警戒は、三人とも怠っていたつもりはなかった。
ところが、目の前の男はまさに今しがたそこに降り立ったかのように突然現れた。三人まとめていとも簡単に後ろをとられてしまったのだ。もし敵意を持った精霊が相手であれば、下手をすれば一瞬で殺されていたかもしれない。実際に任務にはそういった危険を伴うこともある。油断は文字通り命取りで、彼らもそれを分かっていたはずだった。
対する男はにこにこと笑ったままだった。さも当然と言うようにそこに佇んでいるだけだ。だが、本能的な何かが彼を異様に警戒していることに、ケイは自分自身でも驚いていた。
寝不足なのか男の目の下に刻まれたクマが、その笑みを余計に不気味に見せていた。
コツン、と堅い靴の音がする。湖畔の湿気った土を踏みしめるには不釣り合いな革靴が、一歩踏み出したのだ。
「おいおいそんなに警戒しないでくれよ。何も取って食べたりしないって」
一層強固に身構えた子供たちを、男はまた両手を上げてまぁまぁと宥める。
男性にしてはやや小柄だが、ケイたちと比べると目線は高い。見たところ三十歳前後といったところだろうか。恐らく自分の年齢の半分にも満たないであろうケイたちに対し、向ける眼差しはむしろ優しいものだった。
男は三人の前まで歩み寄ると、穏やかな声で言った。
「はじめまして、僕はユキヤ。君たちに会えてうれしいよ」
「……どうも」
「はじめまして」
「こんにちは」
三人はそれぞれつられて会釈を返す。皆堅い表情を崩さないが、それでもユキヤは満足そうに頷いた。
ユキヤはポケットから何かを取り出すとケイたちに見せてきた。半透明のカードのようなものに、七枚の花弁を模したマークが刻まれている。政府の紋章だ。その下に番号が書かれていて、これを認証すれば政府に確認が取れるのだろう。確か地図が添付されていたメールにも同じ番号が書かれていた気がする。
「君たちのことは政府から少しだけど聞いてるよ。わざわざ来てくれてありがとう、感謝するよ」
「ああそうだったな。任務は何なんだ。こんなところで何が? っていうかあんたは何者だ?」
「そんな一度にいっぱい聞かれても。君もせっかちだなぁ」
ケイの早口に、ユキヤは逆にゆったりとした口調と苦笑を返す。ケイはさらにむっと顔をしかめた。
裏があるのかこれが素なのかわからない。つかみ所のない男だ。
ますます苛立ちを露わにさせるケイの前に、不意にハルトが歩み出る。
ハルトはにっこりと笑ってユキヤと目を合わせた。
「まぁね、任務は別にオレらにできることならなんでもいいんだけどさ。先にひとつ確認いいかな? なんでスピリストがわざわざ任務を依頼しにくるの?」
「おや」
ハルトの明るい色の瞳が挑発的に細められた。
ユキヤの眉がぴくりと跳ねる。ケイたちに対し、ようやく本当に興味を示したように見えた。
「あらら、気づいてたの。長袖で手首は隠れてるし、発動さえしなければばれないと思ったんだけどなぁ」
「ううん、カマかけただけだよ」
「ありゃま」
ユキヤは間の抜けた声をあげて脱力した。皺のあるシャツの襟がへにゃりと曲がる。
しれっと笑うハルトに、さしものケイも感嘆の声を漏らした。ナオなど声より先に拍手を打ち鳴らす始末である。場の雰囲気に合わないことを悟ってすぐにやめたが。
「でもまぁ、少なくとも一般人の可能性は低いんじゃないかって思って。それならまず疑ってかかるのが普通じゃない?」
変わらず笑っている口元とは裏腹に、ハルトの物言いは鋭い。
さらにもう一歩、ユキヤの方へと踏み出す。土の擦れる音がしたとき、ハルトの手にはひと振りの剣が握られていた。
ケイとナオも遅れて身構える。ユキヤは目の前に鋭く輝く剣の切っ先を突きつけられたまま、興味深そうにそれを見据えていた。
ハルトは今度こそユキヤを真っ直ぐに睨みつけた。




