4-0 懐かしい音(☆)
東の景色の端から、まばゆい太陽が顔を出した。
重苦しい霧が立ちこめていた薄闇に光が射し込む。さながら空にかかる天使の梯子のように、まっすぐに「彼」へ届きその姿を照らしだす。
彼は思わず目を細める。夜明けの空を彩る淡く優しい紫色はとても綺麗で、なぜだかほっとした気分になる。朝は苦手だが、たまには早起きもいいものである。
――しかし、それにしても。
彼は表情を曇らせた。
今日もまた「奴」は散々暴れてくれた。
彼の額にはじっとりと汗がにじんでいる。
この深い霧に紛れ、まんまと奴がその手を離れていった方向をじっと見ながら、袖口でごしごしと顔を拭く。ハンカチは持っていないので仕方がない。
「あーあ、また行っちゃった。困ったもんだね」
彼はやれやれと肩をすくめる。そう言いつつも、口調はのんびりとしていた。
朝どころか夜明け前から叩き起こされ、ありとあらゆる角度から「仕掛けて」くる奴にはほとほと手を焼いているのである。最近は特にひどいもので、美しい朝日を連日拝めるのはいいのだが、これでは寝不足で身が持たない。
しかしその反面、奴のしでかすことにはだんだん慣れつつある。というよりも、叩き起こされること以外においては、実は放っておいても特に大きな問題はないのである。忙しい身の上ではあるが、元来物事をそう深く考えない性質である。彼の中ではすでに、いつものことだと軽く流す、という結論に至っていた。
「あの分だと……あー、けっこう遠くまで行っちゃいそうだなぁ。まいっか、だいたい行き先も予想がつくし、そのうち戻ってくるだろうし」
――しかし、いつまでもこのままじゃいけないなぁ。
ひょうひょうとした口振りでそう呟くも、多少の苦笑いを浮かべただけにとどめる。
彼はくるりと踵を返した。背後にある大きな建物へと戻るためだ。
こうしていてはすぐに定刻がやってくるだろう。このほとんど寝起きのままの格好では、また盛大に叱責を食らうに違いない。
服装の乱れはなんとやらと、最近はずいぶん年下の子供にまで厳しく言われる始末だったが、彼自身はそれほど気にしていない。しかしまた長いお小言を頂戴するのは、なるべくなら遠慮したいものだ。
彼は参ったなぁと頭をかく。
ぼさぼさの髪が視界の隅で揺れるのを眺めながら逡巡する。今日の予定は何だっただろうか。
ここは政府の中心たる大都市でも五指に入るほど大きな「とある施設」である。山のように積み重なった仕事を早いうちに片づけてしまわないと、彼は大勢から異口同音の非難を浴びることになるのだ。
――恐ろしい恐ろしい。
彼は思わず身震いする。
寝間着の上に重ねただけの白衣が、ぱたぱたと風に揺れた。
白衣を着るのはもう習慣である。仕事で常に身に纏っているのて、普段着を通り越してすでに着ていないと落ち着かないという域にまで達している。
時にはまるで寝間着代わりと言わんばかりに、仕事中に机に突っ伏し寝てしまうこともままある。だらしがないなどと叱責される要因のひとつなのだが、改善される見込みはなく、部下たちからは半分諦められている。
靡く裾を手で軽く押さえながら、彼はふっと上を見上げる。
ああ、今日もいい天気になりそうだ。
太陽は元気に輝いている。いつもうだるほど暑いのだから、たまには涼しくなってくれてもいいのだけれど。
「――室長」
ぼけっとしながら扉に手をかけた瞬間、待ちかまえていた人物に声をかけられる。
彼がきょとんとした表情をして顔を向けると、壁にもたれかかっていた小柄な少年と目が合った。
よく見知ったその顔に、彼は右手を上げてにこりと笑ってみせる。
綺麗な黒髪を風に遊ばせていた少年は、黒縁眼鏡の奥の瞳をわずかに細めて言った。
「――おはようございます、室長」
「やぁ、おはよう。君は相変わらず早いね」
「それはお互い様ですよ」
彼と同じく白衣を羽織った少年は、腕を組んだ姿勢で静かに言う。こちらはすでに身だしなみをしっかりと整えている。几帳面な性格は知っているが、一体何時から起きているのだろうか。皺一つなく整えられた、やや大きい白衣が少しばかり背伸びした印象を与えるが、少年にはよく似合っている。
――ここに来た時よりもずいぶんと、その姿も様になってきたものだ。
一年ほど一緒に働いてきたが、少し身体も大きくなったように思う。子供の成長は本当にめざましいものだ。
そこまで考えると、我ながら年寄り臭いなぁ、と彼は苦笑する。
何かを噛みしめながらしみじみと一人で納得している彼を不思議そうに見ながら、少年は再び口を開いた。
「またですか」
「そうなんだよー、困ったもんだよー全く」
彼は脱力した情けない声をあげる。すかさず少年は彼を鋭く睨みつけた。
彼はもはや反射的に背筋をのばし直立した。そこに敬礼までつけてしまいそうな勢いだったが、その前に少年に「ふざけないでください」と華麗に一蹴されてしまう。
冷たいものである。内心ふてくされていても、これ以上は相手をしてもらえなさそうだ。
「――今、おれの身内が『ギンネ』という町の近くに来ているようです」
少年は中指で眼鏡を持ち上げると、どこか遠慮がちな声を漏らした。
予想外の言葉に、彼は目をしばたたかせる。
「おや、そうなのかい。でもここからだとちょっと遠いね……いや、列車を使えばわりとすぐかな。どうした、会いに行きたいのかい?」
言って、彼は少年を促すように一方向を指さす。
それは先ほどまで、彼が見据えていた方向だった。彼はわずかに目を見開く。
少年は静かな声を彼に投げかけた。
「室長。おれの願いを聞いていただけないでしょうか?」
少年は真剣な目をして、振り返った彼を射抜く。
まっすぐなその鋭い視線に、彼はしばらく言葉を失ったあと、意味深な笑みを浮かべた。
「それも君が視たのかい? それとも聴いたのかな?」
「……いえ。先輩から聞いた情報をもとにたどり着いたまでです」
「そうかい。いいだろう、君は僕の可愛い部下だ。僕が叶えてあげられることならば何なりと言ってみなさい」
右の手のひらを少年の方へ向け、彼は促す。
朝日の色を映す彼のその目が、少年には底知れぬ輝きを放って見えた。
「ありがとうございます。では……」
少年はゆっくりと口を開く。
風に揺られたその言葉に、彼は意外そうに目を丸くしたあと、小さく首肯した。




