3-23 蔦と蝶(☆)
「え!?」
ナオの甲高い声が響く。踊るようにくねる蔦は、エリアがいるからなのかどうか、襲いかかってはこなかった。
ケイはナオの前に立つと、彼女を背に身構える。やがて蔦が動きを止めると、ようやくまた空に漂うエリアに目を向けた。
「これは……この辺りの植物が育ちまくってたのはやっぱりお前の仕業か」
「うむ。我らの力があり余っておったのでな。その影響だろうのぅ」
低い声で言ったケイに、エリアはさも当然のようにころころと笑う。
悪びれもしないその態度に、ケイたち三人は拍子抜けする。
「蝶どもはわずかとはいえわしの力を持っておるからの。霊力が満ちているこの時に、このような宴が始まったものでな。浮かれたのじゃろうて」
「霊力が満ちている?」
「そうじゃ。今わしの力は普段よりも強うなっておる。しばらくすれば落ち着くだろうが、こやつらも少々持て余しておるようでな。相すまぬ、許せ」
反復したのはハルトだった。上空のエリアに剣を向ける少年に、エリアは肩をすくめてみせただけだ。
エリアの周りで飛んでいる蝶たちが、また数匹彼女のもとを離れ降りてこようとする。そのとき、町の人々から短い悲鳴があがった。
ケイは反射的に、掌に凝縮していた冷気を放って蝶を阻む。冷風を嫌がったのか、蝶は不満そうに羽ばたくとエリアの元へ戻っていった。
エリアは不思議そうに目を丸くして、ケイたちを見下ろしていた。表情がくるくるとよく動く精霊だ。
「何をする。その魔力、我らを害することに使うつもりか」
語尾がやや強まる。ナオは慌ててケイの前に出ると、エリアを見上げた。
「そ、そうじゃなくて! こんな所構わずにょきにょき草が生えてくるから!」
「何を言う。緑が増えるのは良いことであろう?」
「ぴゅぇっ!?」
エリアは片手を掲げて見せる。得意げな顔を傾けた彼女に、ナオはがくりと項垂れた。直後、勢いよく顔を上げると大きく首を横に振る。
「だ、だめですよ! この町の皆さん困ってます!」
「ふむ……?」
忙しない動きとともに訴えかけるナオに、エリアは初めて眉をひそめてみせた。
エリアは一度大きく翅を動かした。また風が生まれるとともに、彼女は上昇し、人々を見下ろす。
そして彼女は気付く。人々の群れと、彼女に集められるたくさんの視線の中に、不安と、畏怖の色が混ざっていることに。
「おかしいのぅ。昔は緑を増やし、木々を成長させたらたいそう喜んでおったこともあったものだが」
エリアは小さく唸ると独りごちた。蝶たちが賛同するように小刻みに揺れている。
その言葉に、ケイははっと息を呑んだ。
「なら、緑の妖精というのはやっぱり……」
「妖精様!」
ケイの言葉を、甲高い声が遮った。
そちらを顧みると、小柄な女性がスカートの裾を持ちながら駆け寄って来ていた。サキだ。
立ち尽くす人混みをかき分け、ステージのすぐ前まで躍り出る。
危険だ。退がらせようとしたハルトの手を振り払うと、サキは手を組んでひざまずいた。
宙に漂うエリアに向け、恍惚とした笑みを向ける。瞳はうっすらと涙に濡れ、他の何も目に入っていない。
弾む呼吸をようやく落ち着かせると、サキは吐息混じりに言う。
「ああ、緑の妖精様。お祭りを……この豊穣の舞いを見に来てくださったのですね。私はなんと幸せなのでしょう!」
サキの頬を涙が次々と伝う。
アイメイクが涙で滲むのもいとわず、サキは肩をふるわせた。
「サキ!」
アオが遅れて駆け寄ってくる。しかしサキの耳には、夫の声など届かない。
目の前に現れた、憧れ続けた妖精の姿だけを、声だけをその身に刻みつけるかのようにその場から動かず、ただ泣き続けている。
「聞いていなかったのかサキ! 妖精は、いやこの精霊は……!」
アオはサキの肩を掴むと、無理矢理目を合わせようと力を込める。しかし、大きく見開かれたサキの瞳だけがぎょろりと動く。
「うるさい! 邪魔よ、どいてっ!」
眉を跳ね上げると、サキは叫びながらアオを振り払った。
想像し得ないほどの強い力と、見たこともないほどの拒絶に、アオは呆然と手を離した。
サキは再び空を仰ぐと手を組む。怪訝な顔をしているエリアをじっと見つめ、涙で濡れた顔を綻ばせた。
「ああ、光の神よ。そして緑の妖精様。日々の恵みに加え、このような幸せを我々に与えてくださってありがとうございます」
恍惚とした表情で、サキは続ける。
「この『アベリア』の町は毎年感謝のために、この祭りの伝統を引き継いできました。あなた様が加護を与えて下さったおかげで、今年も多くの作物を収穫することができました。中でも豊穣の舞いは……」
「あなた様が、とはどういう意味じゃ? わしはお前に何もしておらぬ」
エリアの冷気をはらんだ声が響く。
サキははっと息を呑む。それ以上の言葉が紡げない。周りの空気が凍り付いて、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。
「あ……いあ……あの……」
唇が震える。どうにか声を絞り出すと、サキは喉に手を当てて、ひとつ息を吸う。
早鐘を打つ心臓の音が、頭の中にうるさく響いていた。
「……む、むかし。昔この町に住んでいた私の祖先が、不作に喘ぎ、火事で焼け落ちた大地を蘇らせた妖精様の奇跡を目の当たりにしたと言います。感謝を忘れないよう、その伝承を物語にし、ずっと語り継いできたんです……」
「ああ、そういえばそんなこともあった気がするのう。あななつかしや」
所々辿々しくなったサキの言葉に、エリアはようやく理解したというように頷いている。
一生分の声を絞り出したかのようなサキとは対照的に、エリアの口調はごく軽いものだった。
「いつの話をしておるのやら。お前など生まれてもおらぬだろう。礼を言われる筋合いはない」
「で、ですが! 妖精様……」
「わしは妖精などではない」
エリアが緑の目を眇める。金糸のような髪がふわりと広がった。蝶たちは気にもしないで彼女の周りをひらひら踊る。
サキは今度こそ絶望した。口に手を当て、小刻みに顔を横に振っている。
聞きたくない。だが、エリアは容赦しない。淡々と、紡ぐ。
「もう一度言う。わしは草木と花の精霊、エリアじゃ」
足元ががらがらと崩れ去るような心地がして、サキは地に両手をついた。
「精……霊? そんな……そんなはずは……だって、妖精様……なら、他に……」
「サキ!」
打ちのめされて項垂れたサキを、今度こそとアオが彼女の肩を掴む。
サキは一度大きく身体を跳ねさせたあと、綺麗な爪を地面に突き立てて土を削った。
「どういうつもりよ、アオ!」
握りしめた土をアオに叩き付け、サキは狂ったように叫び続ける。
「あなたのせいよ! あなたが余計なことを……政府に申請してスピリストに来てもらおうなんて言うから! 妖精様は来てくださらない! この神聖なお祭りにっ」
サキは夫の胸を力任せに何度も殴りつける。
「サキ……」
「あなたのせいよ……」
「サキ」
「どうして、妖精様はどこ……」
「サキ!」
アオが声を張り上げた。
次いで悲しげに唇を引き結ぶと、サキはようやく動きを止める。
彼女の目に、みるみる大粒の涙が溢れた。
「……知りたくなかった」
力なく俯くと、サキの涙は乾いた土に吸い込まれていく。そして両の拳をアオに突き立てたまま、そう絞り出した。
アオは躊躇いつつ、彼女の肩にそっと手を置く。サキはびくりと身体を痙攣させたが、振り払おうとはしなかった。
啜り泣くサキに、アオはゆっくりと口を開いた。
「サキ……それでも、おれは……」
「聞きたくない! なんでよ、私はずっと、何のために……!」
サキは耳を塞いで首を振る。聞き分けのない幼子のような彼女の顔を、アオはまっすぐに見つめた。
「サキ。本当のことを知るときが来たんだ。お前だけじゃない、この町みんなが」
「ほんとのこと……?」
涙声で、サキは繰り返す。諭すように優しいアオの瞳が、悲しげに細められた。
「なら、あんたは最初からあの精霊のことを知っていたのか?」
突如として投げかけられた声に、二人ははっとそちらを見る。
声の主はケイだった。その少し後ろでナオは眉根を寄せ、じっとサキを見つめている。ハルトはその隣で、黙って腕を組んでいた。
アオは首を横に振った。
「最初からじゃない、知ったのはほんの数日前だ。最初に植物の異常成長について問い合わせたとき、この町の政府に聞いたんだ」
アオは静かに話し始めた。
「異常成長には精霊が関係している。政府は迷いなくおれにそう言った。おれはさらに聞いてしまった。ずっと気になっていたことを……『緑の妖精』とは、精霊と何か関係があるのか、と」
怯えたように瞳を揺らすサキの手を、今一度握りしめる。逃げるなと、そう言わんばかりに強く、優しく。
「政府の答えはイエスだった。この町は精霊の守る『場所』の範囲内だ。だから後に緑の妖精と呼ばれるようになった精霊は昔、この町を助けたのだろうと」
アオは顔を上げると、黙って浮かんでいるエリアを見る。エリアは唇をそっと吊り上げると、わずかに顎を持ち上げ続きを促す。
「妖精の森、その最奥に立つ大木に精霊はいるらしい。精霊は姿を見せないが、わずかな霊力を持つ蝶は気まぐれに現れる。しかし特に害はないし、町の住民も妖精の使いと好意的にとらえている。だから特に動くことはせず、長年霊力を観察し見張るのみだったそうだ。それがこの一週間で、急激に霊力が強まった。異常成長はそれが原因なのだろうと。このままではいつ蝶たちの本体である精霊が現れるとも限らない。だから、スピリストを呼んで戦力を整えることは必要なのだ、と……」
語り終えると、アオは俯いた。
辺りに衝撃が走る。風の音すらもない静寂が、冷たく彼らを包んでいた。
――いつか精霊とあいまみえる。
それはこの町にとって、遅かれ早かれ避けられないことだった。
よりにもよってなぜ、この大事な時期に。
アオは政府で悔しそうにそう零したが、仕方がないことだった。
奥歯をぐっと噛みしめると、アオは腹をくくったのだ。
受け止めるしかないのだと。




