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3-22 水の匂い


「よ、妖精……!?」


 喉の奥から絞り出したかのような、誰かの震えた声があがった。


「み、緑の妖精様だ! 間違いない! 妖精様がおいでくださった!」

「妖精様! 妖精様!」


 流れるようにして、人々はどよめきだす。

 彼らが伝え聞いてきた守り神、緑の精霊。それが目の前に現れたと言うのだ。ただ狼狽する者も、慌てて地面に額を擦り付ける者も、歓声をあげる者もさまざまだった。

 踊り手たちやケイたちスピリストは、あまりのことに動けずにいた。


「あ……ああっ……! ようせい……さま……!」


 どこからか辿々しい女の涙声が聞こえたところで、ナオはようやく口を開いた。


「あの絵の、妖精……?」


 見た目は十八歳ほどの女性だった。

 蝶を従えるその姿は、サキの屋敷で何度も見た、あの肖像画の女性によく似ている気がする。

 白いレースがたっぷり使われた、ワンピースのような服の裾がはためいている。

 その手足には、緑色の細長い蔦が緩く巻き付いていた。

 蔦と同じ若草の色の瞳が意味深に細められる。薄桃色の花びらのような唇が開き、穏やかな声がこぼれた。


「なんじゃ、芳しい水の匂いがしたと聞いておったのに、ただの火の玉のような小娘じゃったか」

「う、うにゅう……」


 妖精に見とれていたナオは、彼女の見た目に不釣り合いな堅い口調とその内容に口を尖らせた。

 ナオは視線を背後に滑らせる。無意識に、同じようにぽかんとした表情をしていたケイを見やる。

 すると妖精もケイの存在に気づいたのか、彼の目をじっと見つめた。

 妖精と視線が絡み合う。いや、絡め取られて、離せない。


「そこの子供は水の魔力を持っているな。ではお前か?」

「え、いや俺は……」


 咄嗟に言葉が出てこず、ケイは戸惑う。しかし妖精は興味なさげに言葉を続けた。


「いや。その魔力、完全な水のものではないな。なんじゃ、きっとどこかで我が既知と似た精霊にでも触れただけかのう……ん?」


 一人で納得しようとしていた妖精はケイから視線を外す。どこか遠いところを眺めようとしたところでふと、またナオに目を向けた。

 風もないのに、妖精の金の髪が大きく靡く。本能的に感じる強大な力に、誰もが肩を強ばらせた。

 ナオは踊り手たちを庇うと身構える。

 慌ててステージに上がってきたハルトが彼女らをゆっくりと下がらせると、ナオは唇を引き結んで妖精と対峙した。

 こうなれば臨戦態勢を取るより他なかった。ナオの髪や衣装が、淡い光を帯びてふわりと広がった。

 応えるように、妖精の周りに漂う蝶たちがいっそう大きく羽ばたく。途端、数十匹の蝶がナオに向かって飛んで行った。


「きゃっ……やぁーっ!」


 蝶はナオに群がるように飛びまわる。両手をあてもなく振り回して抵抗するが、何度も身体にぶつかるだけで離れてはくれなかった。

 ナオは奥歯を噛みしめると、左手をぐっと握りしめる。彼女がきっと目をつり上げるより一瞬だけ早く、ナオの前に躍り出ようとしたケイの声が響いた。


「ナオ! やめろ!」

「やめよ。静まれ」


 遮るようにして、静かな妖精の声が重なる。途端、蝶たちはぴたりと動きを止め、妖精のもとへ一斉に舞い戻る。

 呆けるナオに向かって、蝶を従えた妖精は唇を吊り上げた。

 さながら、蝶の妖精の女王のようだった。


「すまぬな。これらは自我は持ち得ぬ。ただ惹かれたものに惹かれるのみ」

「惹かれたもの……?」

「ふむ。お前は三日ほど前に町に現れた子供か。確かにこれらが気に入ってよく映していたな……」


 妖精は指先で手近にいた蝶に触れる。応えるように、蝶が小刻みに羽ばたいた。


「映していた……?」


 ナオは眉をひそめる。

 彼女の表情を面白そうに見ていた妖精はふと、何かに気づいたように髪を揺らす。

 妖精はナオを指さした。


「火の玉、お前の髪についている丸いものはなんじゃ? 石か? 花か?」

「え? 私のこと?」


 他に誰がいるのだと妖精が頷く。もはや火の玉呼ばわりである。

 ナオは言われるがまま、己の頭に手をやる。丸いもの、と言われて行き着くのは、いつも身につけている赤いヘアゴムだ。ナオは半分ひっくり返った甲高い声をあげた。


「あ、これは石でも花でもないですよ。ヘアゴムです!」

「へあごむ?」


 妖精は不思議そうに反復する。吸い込まれそうな深い緑の瞳がまたたいた。

 妖精はすっと腕をもたげ、ナオを指さす。袖のフリルが揺れたのと同時に、妖精の腕にまとわりついていた蔦が伸びてくる。

 まるで蛇のようにうねりながら近づいてくる蔦にやや身構えたものの、不思議と嫌な気配はない。じっと妖精を見つめるナオのヘアゴムに、蔦の先端がゆっくりと触れた。

 妖精は頷いた。


「――やはりか。そのへあごむとやらから水の魔力を感じる。おまえは水の魔力も持っているのか?」

「え……」


 蔦が淡い青の光をおびた。

 妖精の言葉に、ナオは狼狽えた。ナオは火だ、水の魔力など持っているはずはない。スピリストの力は皆ひとつだけだ。

 脳裏に浮かんだのは、ひとりだけだ。


「水の魔力って、もしかして……」

「この蝶はわしの力をほんの僅か分け与えて作りあげたしもべ。我が目となり、手足となり、守るべき場所を見渡す。わしがそこにおらずとも」


 妖精の声が、ひとりごちたナオの言葉を遮る。

 妖精が翅を広げる。美しい緑の瞳が、月の光を背に鋭く輝いた。


「わしはこの地の植物を司るもの。守り、慈しみ、害するものは滅するのが我が役目。魔力を持つ人間よ、この地に何をしにきた」


 凛としたその声音は、風となって赤紫の空を駆け抜ける。

 まるで神風。明らかに強まった霊力は張りつめて、その場にいるものを圧倒した。


「植物を……! じゃあやっぱりあなたは精霊なの?」

「そうじゃ。我が名はエリア。草木と花の精霊、エリアじゃ」


 ナオの言葉を、妖精は、いや、精霊はいとも簡単に是する。

 高らかなその声に反し背後に伝わってきたのは、空気を震わすかのような冷たさ、絶望だった。

 精霊、エリアはナオを真っ直ぐ見つめながらやや高度を下げた。


「お前の水の魔力、それに惹かれた蝶どもも多かろう。わしは植物そのもの。我らにとって水はなくてはならないものだからだ」

「これが……?」


 ナオはヘアゴムにそっと触れる。指輪に括り付けられた半透明のリボンが、花びらを飾ったヘアゴムに近寄る蝶のようにひらひらと揺れた。

 そういえば。とナオは思い出す。

 この町への道中、列車で左横に座っていた同い年のスピリスト、ランは、ずっとナオの左側の髪に触れており、別れ際にはヘアゴムに口づけを落としていった。

 もし、それで。『水』の能力者である彼の魔力の痕跡が残っていたのだとしたら。

『火』であるナオには持ち得ない魔力の残渣に、蝶たちが反応したのだとしたら。ナオだけがやたらと植物に絡みつかれる理由もわかる。本来は逆に、植物に通じる力を持つ精霊には嫌悪されたであろう能力の持ち主なのである。蝶たちが魔力を選ぶのだとしたら、すすんで群がる理由は何一つない。

 ならば、土から生えた蔦が、足から頭の方へと這い上がってきたのも。首に絡みついてきたのも。

 自身を育むために欠かせない、水という力を求めていたのなら。


「もしかして、皆私のヘアゴムに向かってきていたの?」

「ふむ。もう薄れかけておるところをみると、お前の持つ力ではないようだのう。それでもやはり、その魔力はどこか惹かれるものがある。不思議なものじゃ」


 言うと、エリアは唇をつり上げる。腕を僅かに動かすと、ようやく蔦はナオから離れ、一瞬でエリアの元に舞い戻った。


「ほ、ほぇえ……」

「ずいぶん腑抜けた声だな。わしと戦う気はないのか、火の玉」

「ぴゃっ!? ないですよ!」

「ならば何をしに来た、答えよ。後ろの子供もだ」


 エリアの声が強くなる。

 ナオも、ケイとハルトも一様にして警戒を強める。

 何という霊力だろう。対峙するだけでも、エリアの力の強さが窺えた。

 精霊は、場所に縛られ、場所を守るもの。この自然に溢れる町やあの豊かな森に住むのなら、これほどまでに強い力を持つのだろうか。

 今この町は、エリアの守るべき場所。彼女自身も警戒しているのだ。自分以外の、戦う力を持つスピリストというものを。

 その場を守るためならば、彼女は手段を選ばない。その場を失くすことは、命を失くすことと同義だ。

 ナオはちぎれそうな勢いで首を横に振った。


「ち、違います違います! 私たちの任務はお祭りを成功させることです!」

「祭り? この戯れのことか?」


 エリアは表情を変えない。首を少し傾けると、代わりに周りの蝶たちがぱたぱたと羽ばたく。まるで喜んでいるかのように軽やかだ。


「ふむ、確かにこの町のものたちは毎年この宴のようなことをしておるな。それとお前たちと何の関係がある?」

「そ、それは、最近町で植物が……え?」


 言いかけたナオの横で、いつの間にか一匹の蝶がひらりと踊る。

 ぎくりと身体を強張らせてそちらに視線を滑らせると、蝶はナオの目の前で円を描くように飛びまわる。数周それを繰り返すと、突如として溶けるように消えた。

 その直後、ステージのすぐ近くの土が盛り上がる。地面を突き抜けてきたのは、何度も見たあの蔦だった。



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