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3-21 月夜の蝶

「ん?」


 ふと、ハルトの顔の横を何か白いものが横切った。

 目をぱちくりさせて後ろを振り返ると、ケイも不思議そうにそれを追う。


「どうした?」

「今なんか花弁みたいなのが……あれ?」


 言いかけて、また白く軽そうなものを視認する。二人して仰ぎ見ると、いつの間にか空から無数の花弁が降ってきていた。


「わぁ……! 綺麗!」

「すごい、何だろうこれ! 今までこんなのなかったのに!」


 周りからは、人々の弾んだ声があがる。

 ケイとハルトは再びサキの方を見る。彼女は立ち上がり、口元に手を当てておろおろとしていた。


 ――これは、演出ではない。


「ナオ!」


 ケイはステージに向かって叫ぶが、音楽や歓声に掻き消された。

 ナオは夢中で踊っていた。

 短いながらも何度も繰り返し練習して、曲も頭に叩き込んだおかげで、身体は勝手に動く。

 始めこそ視界いっぱいの観客に圧倒されて真っ白になったものの、もはや何も見えなくなっていた。

 ヒマリも、他の踊り手たちも、糸で繋がっているかのように息を合わせる。

 これは任務だ。

 だが、たった数日のことでも、認めてはもらえなくても、努力したことを出し切ることは、楽しい。

 いつの間にか、身体が熱を帯びていることにナオは気付かない。

 二度目のサビに差し掛かり、大きく手を上げる。澄んだ鈴の音がまた響く。

 自身の指先を見たところで、ひらひらと降り注ぐ花弁にようやく気付いた。


「――え?」


 わずかに口が動く。その瞬間、指先に小さな炎が灯る。

 しまった、そう思ったがもう遅かった。無意識に能力を発動してしまったらしい。

 わずかに光る左手首の精霊石を抑えようと焦るよりも早く、真上から突風が叩き付けられた。


「きゃああっ!」


 風とともに大量の花弁が降り注ぐ。ナオは思わず腕で顔を覆った。目を開けていられない。

 音楽も歌声も、舞いもぷつりと途切れる。あたりはたちまちパニックに陥った。

 ざわめく人、人ごみを取って返して逃げようとする人、空を見上げて狼狽する人、それらが連鎖していく。


「ナオ!」


 ケイは人を掻き分けて進もうとするが、思うようにステージに近づけない。

 花弁は明らかに、ステージを中心に降り注ごうとしていたのだ。


「くっそ! やっぱりナオの魔力に何かあるのかっ」


 ハルトは体勢を低くしながらどうにか人の間を掻い潜ろうとするが、やはり無理だった。

 ハルトは肺いっぱいに息を吸い込んだ。


「ナオ、発動を解け! 魔力を抑えるんだ!」

「もう解いてる! けど花弁は収まらないの!」


 ようやく届いたのか、ナオの甲高い声が返ってくる。彼女は片目を眇めながら、花弁が迫りくる上空を睨みつけていた。

 地面が徐々に白く染まる。埋もれてしまいそうだ。

 ナオはその小さな背に、踊り手の少女たちを庇う。

 発動を解いたナオは、少女たちとさして変わらない。だが、抗うすべを抑えても、花弁はさらに増えるばかりだ。

 このままでは彼女らにも危害が及ぶ。ならば、立ち向かうしかない。

 精霊石が鋭く光る。ナオは左手を突き上げた。

 小さな手の真ん中に現れた炎はすぐさま膨れ上がり、辺りを眩く照らす。

 巨大な火球となって放たれた火は、上空で弾けて花弁を焼き尽くす。しかし荒れ狂う風はすぐに火を掻き消し、再び襲い来る。

 風圧に押しつぶされそうだった。ナオは歯を食いしばると魔力を強めた。


「くっ……!」

「やっ……、きゃああああ!」


 背後で身を寄せ合っていた少女たちが、恐怖のあまり縮こまり、ひときわ大きな金切り声をあげた。


「ナオ!」


 ケイとハルトがようやくステージのすぐそばまで駆けつけてくる。

 それを視界の隅で捉えたナオが再び上空へ火球を放とうとしたとき、突如として鈴のように澄んだ声が響きわたった。


「かしましいのう。もう少し静かにできぬか小娘ども」

「――え?」


 一瞬、不気味なほどの静寂に包まれた気がした。

 降り注いでこようとしていた花弁がぴたりと静止する。次いで空へと巻き上がると、すでに地に落ちていた花弁までもが、まるで逆再生をするかのように浮き上がった。

 その異様な光景を、ナオは身構えたまま呆然と見上げていた。


「な、なに……?」


 すでに暗くなった東の空に、満月が柔らかに輝いている。

 その光を背に隠すようにして、花弁は収束していく。

 集まった花弁は、銘々に蠢いているように見える。明らかに自然の風がもたらす動きではなかった。

 しかし不思議と、その不気味なさまを見ても恐怖は感じなかった。

 この刺すような感覚は、これは。


「ナオ!」


 ハルトの甲高い声がかけられる。はっと我に返ったナオはステージの下の彼を振り返り叫んだ。


「ハルト! これは……!」

「ああ、間違いない。これは精霊の気配だ!」


 言うと、ハルトは右手に剣を構えた。ケイも隣で身構える。

 踊り手たちや観客の息を呑む気配が伝わったと同時に、収束していた花弁は空で弾けた。


 花弁の隙間から、ひときわ眩い金色が覗く。

 花弁ではない。白い花弁のような、淡い色の蝶だ。確かに先ほどまで花弁だったように見えたが、いつの間に現れたのだろう。

 無数の蝶たちが群れをなしてひらめく。皆町で見かけた蝶たちと同じ色、同じ大きさ、そして同じ形だ。


 その中心、いつの間にかそこに、一人の女性がいた。


 淡い光を纏い漂う姿は、薄暗さの中でこそ際立ち、神々しい。

 白にも近い金色の長い髪は緩いウェーブがかかっており、頭頂部より右寄りの位置で結い上げられている。

 三つ編みや白い小さな花が飾りにあしらわれている様は、今のナオの髪型とどこか近しいところがある。

 何より目を引いたのは、彼女の背にある大きな翅だった。

 白に近いほど淡く、僅かに透けている翅は大きく優雅に動かされ、黄昏の空に漂いながら辺りに穏やかな風をもたらす。蝶たちと同じ色の、しかし比べものにならないほど美しい、蝶の翅だ。

 目が逸らせない。ただ茫然と、空を見上げているだけだ。



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