3-16 任務開始
「ところでナオ、そっちはまたあの蝶を見たりとか、何か変なことはなかった?」
「うん……今日のところはない」
「そっか」
ナオは頷くと顔を曇らせる。対して、ハルトはやや眉尻を下げて声を和らげる。舞いの練習以外の意味でも、彼女がすっかり疲弊しきっていることを知っていたからだ。
一昨日に屋敷の庭で見て以来、ケイとハルトは蝶に会うことはなかった。しかしナオだけは違った。舞いの練習をしているときに窓の外を飛んでいたり、夜になり宿泊している支部に戻ろうとしたら、暗闇でも驚くほどはっきりとその姿を視認したりと、何度か蝶に遭遇していたのだ。
これまでにわかったことは三つ。
ひとつめは、やはり植物がおかしなことになる前には、少なくともナオは必ず蝶に会っていた。
サキの趣味なのかそういう町だからなのか、庭だけでなく屋敷内にもたくさんの観葉植物が置かれていた。それがナオにとって災いした。部屋の植物に何度も襲い掛かられたのだ。危うく怪我をした踊り手の二の舞になるところだった。
ナオはそれを撃退し事なきを得たのだが、そのたびに丸焦げになった鉢を見てサキが悲鳴をあげていたのでまた平謝りである。そのうちに襲われても逃げに徹するのみとなった。
もはや窓の外を見ないようにしようと思ったら、そうはいかないと言わんばかりに室内でも蝶に遭遇する始末である。捕まえようとしても必ず見失ってしまい、何も分からないままだった。
外に出たところで同様だった。屋敷から支部に戻る際も、周りの草木が突然蠢き成長しはじめたのだが、夜なのもあってその様が非常に不気味で、ナオは空を引き裂かんばかりの奇声とともにまた盛大な花火を打ち上げてしまった。
初日、遅くまでサキの屋敷で練習していた帰りのことだったのだが、その後また支部でこっぴどく怒られ、道中ケイかハルトが必ず付き添うようになったことは言うまでもない。
ふたつめは、ケイとハルトが実際に異常成長した蔦に覆いつくされてしまったという家を見に行ったとき、わずかだが何か霊力のような気配を感じ取ることができた。
――やはり精霊か。
そう思った二人だったが、妖精とやらの気配など知らないので確かめようがなかった。だが、何かしらの力がそこで発現していたのは事実だ。家の持ち主は外出していたというので、蝶がいたのかはわからないが。
そしてみっつめ。突然現れる蔦は、どれも同じ葉の形をしていた。
田畑の作物が突然実をつけたりと、既存の植物が異常成長するパターンと同じ蔦がいきなり生えてくるパターンがあるようだが、両者の発現に規則性はないようだ。
結局のところ、鍵となるのはやはり、あの不思議な蝶だ。
ケイとハルトは蝶の外見等の情報をまとめ、藁にも縋る想いで政府に提出した。何か分かり次第連絡を寄越してくれるそうだが、それぐらいのことをこの町にある支部が把握していないとは思えない。
生態が謎に包まれた美しい蝶。
情報に溢れたこの世の中で、そんなものが果たして存在するのだろうか。
もしそんな生き物がいるのならば、学者や研究者がとっくに調査に乗り出していてもおかしくない。それをしないのなら、何か別の事情があるのかもしれない。
「何か裏があって隠蔽してるとかじゃねぇだろな」
「気持ちはわかるけどね」
ケイが悪態をつくと、ハルトは真顔で頷いた。スピリストが政府に振り回されることなど日常である。いちいち疑ってかかってもきりがない。
「とりあえず、時間切れみたいだね。もう祭りが始まる。行かなきゃだよ」
ハルトは携帯電話をポケットに押し込むと、窓の外を見た。
町はすでに多くの人で溢れ、活気に満ちていた。空気に形があるのなら弾んでいそうだ。
今の時間は、午前十時の少し前。
『アベリア』の町の収穫祭、一日目が始まろうとしていた。
ケイとナオは同時に頷く。
それぞれの任務を果たしに行かなくては。
「――これより、任務開始だ」
ハルトの澄んだ声が響く。
「あら? 大変、もうそんな時間なのね」
ケイとハルトが部屋を出ようとしたところで、サキと助手のお姉さんたちがお菓子とティーポットを抱えて戻ってきた。
人数分揃えてくれていたが、頂いている余裕はないらしい。ハルトが謝罪すると、サキは残念そうに頷いた。
「二人ともお願いね。会場の方はアオに任せてあるから。今は教会にいるはずよ」
「ああ」
サキはケイとハルト、二人を交互に見やる。彼女の瞳の奥の輝きは、どこまでも真っ直ぐだ。
サキは胸の前で両手を組む。目を伏せると、祈りの言葉とともに、祭りの成功を願う。
「光の神と豊穣の女神、我らが緑の妖精。彼らの加護があらんことを」
聞き届けると、ケイとハルトは彼女の横をすり抜け、部屋を後にする。
サキは彼らの背中を目で追うと、すぐに踵を返す。
部屋に入ると、ナオがお茶の準備の手伝いをしようと駆け寄ってきていたところだった。
「あら?」
「え?」
ふと、サキは素っ頓狂な声をあげる。
お菓子を乗せた皿を抱えながら、サキは訝しむナオを舐めるように見る。表情は真剣そのものだ。
「あ、あの……なにか……」
嫌な予感がしつつ、ナオは上目遣いに視線を絡める。サキの眉間の皺がいっそう深く刻まれた。
「ふぅん……ううーん……? むむむむ……?」
「むむ?」
「むむむむー…………! うーむ……」
ひとしきり唸り続けると、サキはすっと背筋を伸ばしてもう一度ナオの全身を見る。そして、彼女の口から衝撃的な言葉が落とされた。
「……うーん、ちょっとその髪編み込み多すぎない? もう一回ブローからアレンジやり直しましょ!」
「ぴみゃああああああああっ!?」
ナオの甲高い悲鳴が、屋敷中に聞こえんばかりに響きわたる。
いつものごとくよく分からない奇声だが、可哀想なほど感情が込められていた。
背後から轟いたその悲鳴に、何となく事態を察したケイとハルトは、何とも言えない微妙な顔を見合わせた。
何もしてあげられることがなく固まっているだけのケイの横で、ハルトは静かに合掌を捧げていた。




