3-7 お祭りのためなら
「お、おかしいな……さっきは確かにいたのに」
ナオは眉を下げると、行き場をなくした指先をへにゃりと折る。
確かに空に溶けてしまいそうなほど淡い蝶だったが、ほんの少し目をそらした隙に忽然といなくなるのは不自然である。蜂ではあるまいし、飛ぶ速度も速くないというのに。
不可思議なことに、ナオはまた顔をひきつらせた。嫌な想像をしてしまいそうだ。
「ち、ちがうちがう! ねぇハルト、キミは見てた? さっきのちょうちょっ」
「へ? 蝶?」
頭をぶんぶんと振って訴えかけてくるナオに、ハルトは眉をひそめながら振り返る。
「え、まさか……ほえ?」
彼の顔を見て今度こそ恐怖を覚えたナオだったが、ふと足下に違和感を感じた。何かが足の指先を柔らかく撫でたのだ。
下を見ると、ナオの左足のつま先辺りの土が盛り上がり、小さな双葉が顔を出していた。
ナオはごくりと喉を鳴らしてからゆっくりしゃがみ込むと、双葉にそっと触れてみる。柔らかな産毛に覆われた新芽が、懸命に太陽に手を伸ばして緑に輝いていた。
追って、ハルトが中腰の姿勢になって覗き込んで来る。
「これは……ねぇハルト、さっきはこんなのなかったよね……」
「うーん、なかった気がするねぇ。なに、またさっきの蝶いたの?」
「う、うん……」
「ナオにしか見えなかったんじゃないの」
「そ、そんなことないでしょ!? さっきの子と同じだったもん!」
「オレもケイも向こう向いてたしなぁ。こいつはさっきみたいににょきにょき伸びたりはしないのかな? ほーらほら」
ハルトは指先で双葉をつつく。されるがままに左右に揺れる葉とは対照的に、ナオは縦に肩を跳ね上げた。
「や、やめてよぉ……」
柔らかな葉や冷たい蔦が身体を這った何とも言えない感覚を思い出すと、ナオはぶるりと震え上がる。にやりと唇を吊り上げたハルトはもちろんわざと言って楽しんでいるのである。
「あら、どしたの?」
ようやくナオの様子がおかしいことに気づいたらしい女性は彼女の方へ振り向く。
「な、何でもないです! ごめんなさい!」
ナオは立ち上がると大げさに手を振る。これ以上話をややこしくさせても怖い思いをするだけである。そんな本音を透かし見て、ケイは女性の後ろでやれやれと肩を落とした。
「うーん? ならいんだけど……?」
女性はまじまじとナオの顔を見つめる。どんどん近づいてくる彼女の顔に、ナオは反対に後ずさった。
「あ、あの……?」
「うん、やっぱりあなたかわいいわね。よかった、これで準備が整いそうよ!」
「はい?」
突然目を輝かせ、声を張り上げる女性に、ナオやケイたちはおろか男性でさえも反応に困って固まっている。女性は周囲を気にすることなくナオの手首を掴むと、足早に歩き始めた。
「さ、ともかく早く行きましょ。ちょっとあなたに頼みたいことがあるのよ」
「お、お姉さん、ちょっと……」
「ああ、言い忘れてた。私はサキ。そっちの人はアオ。私の夫なの」
「お、夫!?」
サキの言葉に、ケイたち三人の声が綺麗に重なる。
隣に立っていてもとてもそうは見えない夫婦を交互に見やると、アオは気まずそうに顔を赤らめた。
サキはナオの手と一緒に大きく振りながらからからと笑う。
「まぁ倍ほど歳が離れてるけどねー。私たちが今年の収穫祭の実行委員なのよ。ほら見てあれ!」
サキはくるりと一回転すると足を止め、向かう先を指さす。スカートが鮮やかに広がるのに合わせ、ナオも巻き添えを食らってくるりと回る。
振り回された三半規管を一瞬休めると、ナオはふらつく頭を上げた。
「わぁ……すごい」
ナオはため息とともに短い歓声をあげた。
そこは町のはずれにほど近く、広々とした草原のような場所だった。建物があるわけでもなく、かといって田畑でもない。ただ雑草が生い茂っているだけで、遠くの方に横に広がる大きな木が一本、生えている。
普段は何もない場所なのだろうか。しかし今は、多くの人が蟻のようにせかせかと蠢いていた。
その光景を背に、両手を大きく広げたサキの自信に満ちた笑みが輝いている。
積み上げられた木材に、カラフルな文字の書かれた布がかけられている。その隣にはすでに組み立てられた木材が、小さめのスペースに建てられていた。テントか屋台の骨組みのようだ。
アオと同じような作業着を着た男性たちが、次々と木材を立てて縛り、釘で打ち付けていく。乾いた規則正しい音を響かせながらどんどん形をなしていくのは、見ていてとても面白い。
屋台の脇には、巻いてまとめられた装飾用の電球がたくさん置いてある。どこかに飾りつけられるのだろうか。あれほどの数の電球が、暗いところで色とりどりに輝く光景はきっと綺麗だろう。
遠くの方には、何か円形の広い場所を確保しているように見える。何かを催す場所なのだろうか、ケイたちには分からなかったが、周囲には老若男女たくさんの人が集まって何か作業をしていた。皆一様に真剣で、そして楽しそうだった。
ハルトは目を輝かせた。
「おお、すごい人! ずいぶん大規模な祭りなんだねぇ」
「まだまだ、こんなの序の口よ。屋台だってほんの一部にすぎないんだから」
サキはその反応を待ってましたと言わんばかりにウィンクを飛ばす。
「収穫祭は明後日から丸二日行われるの。教会での感謝の儀から始まって、たくさんの露店や、劇やダンスのパフォーマンス、ステージ、そして収穫された作物の即売会もあるわ。炊き出しもあるから、あなたたちもお腹いっぱい食べていくといいわ。おいしいわよ!」
「わーいオレお腹すいたー」
「ふっふっふっ、農業の町を舐めちゃあいけないわ。育ち盛りの男の子の胃袋だって驚くほどたくさん、しかもどれも絶品! 全部食べきれるかしら」
「わーいわーい」
「わーいじゃねぇよおい」
素直に喜ぶハルトの横から、ケイの鋭い突っ込みが飛んでくる。
「あのなぁ、俺たちはそんな話をしに来たんじゃないんだ。だいたい得体の知れないことが起こってるって言っときながらなんで祭りをやるのが前提なんだよ」
ケイはハルトの黄色い服を掴むと、彼の身体をぶんぶんと前後に揺らした。ハルトはされるがままになりながらも気にした様子もなく笑うと、両の手の平を天に向けた。
「あははー確かにそうだけどねぇ。ちなみにお姉さん、一応聞くけど延期する気は?」
「ないわ」
「だよねぇ」
清々しいほどきっぱりした答えが返ってくる。だいたい予想していた通りの言葉に、ハルトはにっこり笑って頷いてみせた。
ケイが信じられないと言わんばかりに絶句しているのを後目に、ハルトはすっと声音を落とした。
「原因不明の植物の異常成長が起こってるんだろ? 本来なら解決するまで祭りなんかやるべきじゃないってことくらい分かってるよね。政府にも言われなかった?」
「言われたわ。けど、危険は承知よ」
威圧するかのように細められたハルトの目を、サキは真っ直ぐに射抜く。
カラフルなロングスカートを風にはためかせながら、彼女は凛とした声をあげた。
「最初に言ったとおり、あなたたちは収穫祭を成功させるために助けて……というか、私たちを守ってほしい。もちろんおかしなことが起きるのは解決してくれたら万々歳だけど、それは別に後回しでいいの」
サキはケイとハルト、二人を順番に指さす。つまりは護衛というわけだ。




