3-0 その力は何のため(☆)
蒼い色を帯びているかのような、明け方の静まり返った空気の中で、一人の青年が泥のように眠っていた。
連日徹夜で任務に追われていた青年にとって、ようやくもぎ取った仮眠の時間だった。しかし容赦なく、彼が握りしめていた携帯電話が大きな声で鳴り響いた。
枕に埋めていた頭がもぞもぞと動く。
青年は気だるげに瞼を持ち上げると、画面をタップする。けたたましい着信音はぴたりと止み、一瞬の静寂が辺りを包む。
明るい画面から漏れた光が、目元に濃いクマをこさえた青年の素朴な顔を照らす。
政府から渡された携帯電話。任務を命令するためならばいかなる時もお構いなしに主張するそれを恨めしげに睨みつけるが、すぐに耳に当てた。
「もしもし?」
「――あたしよ」
電話口から聞こえてきたのは、落ち着いた、と言うよりも押し込めたような、やや高めの声。
青年は特に驚いた素振りはみせない。むしろ思った通りだと、静かに一度まばたきをしてみせた。
彼の携帯電話に連絡を寄越すのは、最近はもうほとんどがただ一人の少女だけだからだ。
半身を起こして身体を捻ると、再び仰向けに寝転がる。
沈み込むように身体が重い。ぎしりとベッドが軋む音が、やけに鮮明に部屋に響いた。
「今報告メールを読んだわ。今回の情報もはずれだったようね」
少女はやや早口だった。抑揚のない口調はやや大人びているが、よく聞くとまだ幼さが残る少女のそれに、青年は僅かに目を伏せる。
言外にかけられる言い表せない圧力に、青年の周りの空気が色を失った気がした。
いつだってそうだ。彼女はいつも、対峙するものを畏怖させる、鋭い刃物のような感覚を与える。
彼女の言うことには逆らえない。
青年にとっては、政府のそれよりもよほど強固な呪縛だった。
彼女が今浮かべているであろう表情をそっと思い浮かべ、青年は小さくため息をつく。数時間前に送ったメールを、まだ日が昇ろうとしているこの時間に確認してしまう彼女の行動の早さに感嘆しつつも、疲労困憊の中叩き起こされたことには、青年も不機嫌を隠せない。
「……何かあったのか?」
爆睡していたことにより乱れた髪を無意識にいじりつつ、低い声で冷たく答える。
露骨に突きつけられた不機嫌さにも、少女は気に留めた様子もなく、静かに答えた。
「ええ。精霊が騒いでいるのよ」
「精霊?」
ぴくりと、青年の眉が跳ねる。彼が興味を示したことに気づいてか、小さな笑い声が電話口から漏れた。
しまったと、青年は眉根を寄せた。彼女の性格上、こういう時は何かしら面倒事が飛び出してくるのだ。
身構えた青年を見透かしたかのように、少女は針のような口調を投げかけた。
「――微かだけれど、一部の精霊の活動が活発になっているようなの。それで」
「微かなんだろう。僕はまだ例の任務の後処理が終わってないんだ。悪いが任務なら他を当たってくれ」
「任務というほどでもないわ。ただの命令よ」
僅かな隙間をいとも容易く刺し抜かれるように、青年の抵抗は無駄に終わる。これ以上言い訳をしても意味はない。
彼女からこういった「命令」という名の「お願い」が飛んでくるのは、今に始まったことではない。
それを叶えるのは、大抵が青年の仕事だった。
もう何年もずっと、彼は少女の傍にいるのだから。
少女の感情のこもっていない静かな声で。淡々と、音もなく。簡単に絡め取られる。
そして、今も。
「今連絡を取れる範囲で構わないわ。水の属性以外の“彼ら”へ伝えなさい。もし何か心当たりがあるならば申告すること。何もないならそれで構わない」
「水以外とは?」
「じゃ、任せたわよ」
「ちょっと待て、それじゃ不十分だ」
青年は少し声のトーンを強めると身体を起こし、ベッドから離れた。
マットレスが撓む音が聞こえ、足の裏に冷たい床の感覚が広がるのを感じながら、彼は慌てて立ち上がる。言うだけ言って電話を切ろうとしていた少女が訝しげな声を漏らした。
「それはどの範囲で言ってる。この世の中にどれだけの数の精霊がいると思っているんだ、もっと……」
「わからないわ」
「わからないってお前……」
「だからあなたに言っているの。これじゃ任務にすることはできないもの」
少女は悪びれる様子もなく言い放つ。もはや絶句した青年は思わず携帯電話を耳から離し、呆然と画面を見つめた。
通話時間を示す数字がカウントされていく。一秒、二秒と、淡々と。
青年の返答を待っているのか、少女は何も言わない。やがて諦めがついたらしい青年は大仰にため息をついた。
「……本当に今僕が把握できる範囲でしか無理だぞ。それでも」
「構わないわ、十分よ」
少女の声音が僅かに和らいだ。思い通りになったからだろう。彼女のまるで子供のような感情の動きは、ともすればつい昨日任務で出会った子供たちよりもよほど幼いのではないかと、青年は苦笑を浮かべた。
ふと、昨日の任務が脳裏をよぎる。今滞在しているこの町に何日も縛りつけられる原因になった、忌々しい『裏切り者』の任務だ。
あのスピリストの子供たちを選んだのはただの偶然だった。
彼らは自身の任務のために利用した。そして、利用されたことに対して素直に激情を露わにした。
不器用なものだ、と青年は思う。任務など言われた通り機械的にこなせば良いだけだ。
利用し、利用されるこの世の中で。腹を探ったところで意味はない。
スピリストになったのなら。それが自ら望んだことであるならば、割り切るべきだ。余計な感情はいらない。
ただ、忘れてはならない。それが何のためのものであるのかを。
青年は携帯電話を握る手に僅かに力を込めた。
すると応えるかのように、また静かな少女の声が聞こえてくる。
「精霊は理由なく騒がない。必要だと判断したら調査させるわ」
「ああ……わかったよ。でもお前がそんなに気にしなければならないほどのことなのか?」
青年は胡乱げに頭を掻きながら言った。
やや突き放すような口調に、電話口の少女は一度返答の間を置く。
不思議に思った青年が少女の名を呼ぶ前に、彼女は何事もなかったかのように再び話しはじめる。
「そうね、ただなんとなくかもしれないわ。けど、不審な芽があるのなら、確実に摘み取っておくだけ」
「……そうか」
青年は目を伏せる。
そして反芻する。
何としても達成しなければならない任務を、心の中で。
「そういえば、あなたが今いる町は『ヤナギ』と言ったかしら」
「まだ何かあるのか」
少女は気まぐれに思い出したかのような口調で言う。
思わず身構えた青年の思考を見透かしたかのように、唐突に切り出した。
「例の施設、あなたの判断で“余計に”指示した任務で、町の建造物にずいぶんと被害が出たそうね。ならあたしは責任をもって状況を把握しなければならないわ」
「……」
「読んでいたでしょう。あなたはやっぱり気が利くわ」
「……あの施設、というかあの風車。お前はどこまで知っていたんだ?」
「すぐに人を向かわせる。上にはあたしから通しておくわ」
少女は言葉を切る。静かだったが、それは満足げな物言いだった。ならば青年はもう、何も反論することはない。
「町の状況や違反者についての報告も、あなたの口からもっと詳しく聞かせてもらうわ。早く終わらせて戻って来なさい」
「ああ」
今度こそ、青年は迷いなく頷く。
畳みかけるようにして、少女は言った。
「政府に仇なす者には制裁を。分かっているわね、シュウ。それがあたしたちの任務だってこと」
「……ああ」
「ならいいわ。じゃあまた」
シュウと呼ばれた青年の返答を確認するやいなや、電話は一方的に切られた。ツーツーと無感情な音が、再び静寂に包まれた部屋に響く。
シュウはしばらくの間、携帯電話の画面をじっと見つめていた。
眠気はすっかり覚めてしまったが、身体の怠さは抜けていない。携帯電話を握りしめたまま、どさりと大きな音を立ててベッドに寝転がった。
カーテンの隙間から漏れた朝日が眩しくて、シュウは目を細める。携帯電話を持っていない方の手の甲を額に当てて光を遮ると、彼はぽつりと呟いた。
「……人使いが荒い」
怠くて重いはずの身体が、ベッドごとふわふわと浮かぶような心地だった。
誰もいない静かな朝の空気に、彼の小さな声は溶け、すぐに消えた。




