2-22 招かれざる客
「ナオ!」
「きゃあっ!」
ハルトの叫び声が響いたのと、ナオが反射的に床を蹴って飛び退ったのとほぼ同時のことだった。
ナオが立っていた場所の床が突如として膨らみ、天井を突き上がらんばかりに隆起したのだ。
すんでのところで天井に叩きつけられるのを回避したナオは思わず青ざめたが、もはや隠す気もないその魔力に向けてきっと目をつり上げる。
「――下か!」
声を張り上げると、ランはいくつもの水球を床に向かって放つ。
もとは老朽化した建物だ、床は簡単に砕け、露わになった土が水を吸い込んで飛び散る。
すると、今度はランの周囲を取り囲むようにして土が盛り上がり、彼に覆いかぶさろうと蠢いた。
しかし水を含んで柔らかくなった土など、ランの前では無力だった。放たれた水流にあっけなく崩れ去り、泥が周囲を茶色く染める。
行き場をなくしたのか、水溜まりの上で弱い電流がぱちりと弾ける。
するとまた地鳴りとともに建物が揺れ始めた。壁や柱が嫌な音をあげて軋む。
「ここから出るぞ! 早く!」
ハルトは甲高い声を張り上げると、右手を掲げて一振りの剣を作り上げる。
再び盛り上がった床と土を一閃して切り裂くと、崩れてくる瓦礫をひらりとかわしながら廊下へと躍り出た。
このままここにいても、倒壊する建物の中に埋もれるだけなのは明白だった。まき散らされた泥水を撥ねながら、ケイとナオも後を追う。
「ランくん、行こう!」
ナオは振り返りながら叫ぶ。
ランは下に視線を向け、きょろきょろと漂わせていた。揺れる建物を気にするよりも、何かを探しているようだった。
痺れを切らして、ナオは再度声を張り上げた。
「ランくんっ!」
「……似たような力を持つ人を見たことがある。これは、たぶん『地』の能力だ」
「地!?」
促すナオを手で制すると、ランは水びたしになった床にしゃがみ込んだ。その背中に、ケイの苛立った声が投げかけられる。
「ナオ、ここから離れるぞ! おいラン早くしろ!」
「うるさい、少し黙ってろ」
振り返ることなく、ランは冷たく返した。
「……気持ち悪ぃんだよ」
吐き捨てると、ランはゆらりと立ち上がる。床を見つめたまま、彼の服と髪が大きくはためいた。
「誰だか知らねぇがいつまで隠れてる! いい加減に姿を見せろ!」
ランはひときわ大きな水球を練り上げると、再度床に叩き付けた。
ナオは目の前に溢れる水に顔を引きつらせる。ケイに腕を引っ張られて廊下へ飛び出すが、ランは水が満ちていく部屋に立ち尽くしたままだ。
「ランくん!」
自身が放った水の前に自滅することはないだろうが、あっという間に見えなくなるランの姿に、ナオは目を剥いた。
しかしその直後、廊下にも溢れ出ていた水は一気に引いていく。
「え!?」
ナオの甲高い声が響き渡る。
その光景にはさしものランも目を見開いていた。
水は信じられない速さで、床下の土に吸い込まれるようにして消えていく。
いや、消えたわけではなかった。
突如として現れた床下へと続く大穴へと、流れて行ったらしい。
下から感じた魔力に向けて水を放ったつもりだったのだが、ラン自身もこんなものがあるとは思っていなかった。訝しげな顔をして水流を止め、まるで落とし穴のように真っ暗な口を開けた床下を覗き込んだ。
「――この建物、地下に何か……?」
耳をすませると、何か人の声のような音が聞こえた気がして、ランは再び警戒を強めて水を纏う。
しかし、建物を襲っていた揺れがさらに激しくなった。頭上からいくつもの瓦礫が降り注いで来て、ランはその場を離れた。
「くそっ! これ以上は無理か……」
「ここにいたら危険だ! 皆とりあえず出るぞ!」
ようやく部屋から転がり出てきたランを確認するや否や、ハルトは先導しながら廊下を走り抜ける。
激しい揺れに足が縺れそうになるのを堪え、崩れた瓦礫を避けながら元来た道を引き返した。
瓦礫を弾いたり燃やしたりして上手く躱しながら、大きく亀裂の走った床を何度か飛び越えると、やがて泥だらけのエントランスまでたどり着く。
「はぁっ!」
歪んで動かなくなった扉をハルトが剣で両断すると、ひゅっと冷たい風が差し込んで来て頬を撫でた。
「――よし!」
僅かに鼻孔を擽った草の香りに、ハルトはほっと安堵した。ひとまず外に出られたようだ。
四人は瓦礫に巻き込まれない程度に建物から距離を取ると、足を止めて振り返る。
建物は辛うじて形は残っているものの、土煙を巻き上げながら倒壊していた。
四人が無事逃げ出したタイミングを見計らったかのようにして、揺れは収束していく。肩を弾ませながら息を整えると、彼らは顔を見合わせた。皆全身泥まみれでかすり傷もこさえていたが、大きな怪我を負った者はいないようだ。
ナオは大きく息を吐くと、膝に両手をつけて俯いた。
先にケイがランと衝突していたため、建物の外も水浸しのままだ。地面にへたり込むのは憚られた。
「はぁ……あ、危なかったね……」
ふにゃりと力を抜きながら、ナオはほっと胸を撫で降ろす。しかし誰からも反応がなかった。ナオは怪訝な顔を持ち上げる。
「みんな?」
「……ナオ、下がってろ」
ケイは右手を構えながら肩越しに振り返る。彼の周りに冷気が立ち込めており、ナオは思わずぶるりと震えた。
そうだ、まだ任務は終わってはいない。
ナオは表情を引き締めると、地面に目を向け、視線を彷徨わせた。
今は気配を見つけられなかったが、建物が揺れる前は確かに、下から異様な魔力を感じたのだ。ならば、やはり警戒すべきは下である。
四人は背中合わせに身構えた。それぞれが慎重に、懸命に気配を探っていく。
ふと、ハルトがだらりと両手を下げ、口を開いた。
「……ナオはさ、あの時泣いて叫ぶくらい怖かったんだよね。椅子飛んできた時」
「うに?」
唐突なハルトの問いに、ナオは思わず気の抜けた声をあげた。
次いで、またしても恥ずかしいことを掘り返されたことに気付き、ナオは顔を赤く染める。
「そ、そうだけど! それは……」
「それで早く出たい出たいって言ってたわけでしょ、お前」
「う……ごめんなさい」
「そうじゃなくて」
「ふぇ?」
「……地震、オレらが避難したらすぐ収まったよね。ケイが聞いたお前が叫んだわけじゃない悲鳴だって」
言うと、ハルトは手に持ったままだった剣をゆっくりと構える。
ナオはそこで、ハルトの言わんとすることに気づく。視線を滑らせると、再びじっと建物を見据えた。
「……まさか。ただ私たちに出て行かせたかったんじゃ……?」
言いかけたナオの立っていた場所のすぐ後ろの地面が、突如として地雷を踏み抜いたかのように爆発した。
驚いて振り返った時にはすでに、誰かの太い腕が彼女の首を捉えていた。




