2-20 偽りの声
「くそっ!」
吐き捨てると同時に右手を振るうと、水球は飛んできた照明に真正面から突っ込んでいく。照明は粉々に破壊され、辺りに水が飛び散った。
「なんなんだ……肌が刺されてるみたいだ」
僅かに痛む程度の感覚が、全身を包み込んでいるようだった。ランは低い声でそうこぼしながらも、また天井から引き抜かれて向かってくる照明を同じように打ち落とす。
小さな水球でも的確にコントロールし対象を破壊してみせるランに、ケイは不本意ながらも賞賛の念を抱いたが、ランの表情には焦りが見られていた。
すぐに悟る。謎の電気エネルギーに包まれているらしいこの建物では、水球を十分に練り上げることができないのだ。恐らく時間をかけたり、直接体に水を纏えば、先と同じように感電したかのような状態に陥ってしまうであろうということを。つまり、彼の能力的に圧倒的に不利なのだ。
しかしケイとて置かれた状況は同じである。飛んでくるものに迂闊に触れるのは危険と判断した上で、冷気を飛ばしての攻撃のみに留めているのだ。
ばきん、と、またしても嫌な音がすると、風を切りながら照明が飛んでくる。複数同時に飛んでくることがないのが救いではあるが、長い廊下にはずっと同じ照明が並んでいるのだ、これではキリがない。しびれを切らしたランは、声を張り上げながら駆けだした。
「走れ!」
「うっせぇ命令すんな!」
喧嘩腰のケイを無視すると、前方に見えてきた扉を開けて部屋へ転がり込む。
続けてケイは滑り込んだ勢いのまま体を反転させ、すぐに扉を閉める。扉に飛んできた照明が叩きつけられ、高い音をあげて砕けた。廊下に接する窓がないので、さすがに壁を突き破ってくることはないだろう。ランは何度か音と衝撃が伝わってくるのをじっと睨みつけていたが、やがて静かになった。
ひとまず胸をなで下ろすと、ケイは部屋を見渡してみる。
さほど大きい部屋ではなかったが、長いテーブルと椅子が乱雑に放置されており、隅にはホワイトボードのようなものが追いやられていた。もっとも、どれも古びており、錆びた足が曲がって使い物にならなさそうなものも多い。天井の隅にはスピーカーらしきものが備え付けられている。どこか会議室のような印象を受ける部屋だった。
「……ほんとに何なんだ、この施設は……」
ついこぼれたケイの言葉を聞きつけたのか、がたりと何かが動いた音がする。
見ると、今度はテーブルと椅子、果てはホワイトボードまでもがガタガタと震えて小刻みに移動しはじめた。耳障りな音と相まってその光景はひどく不気味で、さしものケイも顔をひきつらせる。
今にまた浮きあがり、こちらにむかって飛んでくるのだろうか。このままではじわじわと魔力を削られ追い詰められていくだけだ。先ほどランと下手に衝突してしまったことが今更ながら悔やまれたが後の祭りである。冷たい汗が一筋、ケイのこめかみから頬を撫でて落ちた。
掌の少し上に、冷気を凝縮させていく。緊張の糸を張り巡らせ、淡い青の光の玉を象るそれを放たんと身構えた。
しばらく蠢いていたテーブルや椅子たちは、床から数センチのところまでゆっくりと浮き上がる。しかし、すぐにまた床に落ちてしまった。
支えを急に失ったかのように、がらがらと大きな音を立てて崩れていく。予想外の光景に、ケイは目をぱちくりとさせた。
「な、なんだいきなり……」
右手を掲げた姿勢のまま、ケイは茫然と呟く。衝撃に巻き上げられた埃だけが宙を舞っていた。
そして気づく。今まで肌をちくちくと刺激されていたような感覚が薄れていた。周りを取り囲む電気エネルギーが弱まったのだろうか。
ランはすかさず水球を三つ作り上げる。今度は水に稲妻が走ったり、身体が痺れたりすることはなかった。
「ふん、どうやらあっちが先にエネルギー切れを起こしたらしいな」
ランは安堵とともにほくそ笑む。こうなれば容赦はしないと、彼が水球を弾き飛ばそうとした時だった。
ぶつん、と妙な音が部屋に響く。ランは反射的に手を止めた。
「――きゃあああああ!」
間をおかず、甲高い女の悲鳴が耳朶を叩く。
明らかに聞き覚えがあるその声に、ケイは今度こそ言葉を失った。
幼く高いこの声の主はナオだ。しかも恐怖を色濃く孕んだ声だ。ケイは全身の血液が凍り付いたかのような感覚を覚えた。
「ナ、ナオ!?」
喉の奥から絞り出すと、ケイは動きを止めた足を叱咤し、部屋を飛び出そうとする。それを阻んだのは、足元に飛んできたランの水球だった。
「待てこのバカ! 迂闊に動くな!」
「何すんだよ!」
「わかんねぇのか! 今のはあのスピーカーだ!」
「はっ……?」
詰め寄ってきたランの胸倉を掴みかかろうとした姿勢のまま、ケイは固まった。
ランによってその手を振り払われた衝撃で我に返ると、ケイは部屋の隅にある古びたスピーカーを振り仰ぐ。ランの言葉を裏付けるかのように、耳障りな短いノイズが聞こえた。
だが、それでナオの身に何かがあったかもしれない、ということの否定にはならないのである。焦りを隠すことはできないでいた。
ナオは恐らくハルトと一緒にいるはずだ。ならば心配ないとも思ったのだが、彼女の危なっかしい性格を熟知しているだけに、不安でならない。
つまり、傍にいたいのだ。
ただそれを望んでいることには、近くにいることが当たり前になり過ぎて、ケイ自身は気付いていないのだけれど。
その時、誰かが廊下を走り抜けてくる足音が聞こえてきた。
じゃりじゃりとガラスの破片を踏みしめている音が大げさに鳴り響き、ケイとランははっと息を呑んだ。
――近づいてくる。
冷気を込めた右手を握りしめた時、ケイたちのいる部屋の扉が勢いよく開いた。




