7-41 音の導き
***
「――音が聞こえた」
「え?」
前触れなくあがった澄んだ声に、アランドは振り向く。
見ると、ユウナは一方向を真っ直ぐに見据えていた。その横顔はつい先ほどまでとは別人のように見えて、アランドは眉をひそめる。
ここまでアランドは風の魔力石を使って進み、屋敷を包む結界の位置を大まかに割り出した。そして同じ『幻』の能力を使ってそちらに攻撃を放ったところ、結界は目に見えて綻んでいる。もう間もなく壊れ、今この屋敷にいる者たちの居場所も感じ取ることができるだろう、そう思っていた頃合いだった。
怪訝そうに顔を顰めたアランドを、ユウナは見ようともしない。ピンク色の長髪が風もないのに大きく広がった。
ユウナから強い魔力を感じる。アランドは思わず身構えた。
「聞こえたって、一体何が?」
「ピアノの音が聞こえたのよ。きっとリュウくんだわ」
振り返りもせず、ユウナは早口で答える。言い終わらないうちに、彼女はふらりと歩きはじめた。
アランドは戸惑ったものの、ユウナを追う。迷いなく進む彼女は元来た道を引き返しているようだった。
「ピアノ? そんなもの俺には聞こえないんだけど、きみにはわかるっていうのか?」
「ええ。きっと彼が教えてくれているんだわ……」
ユウナはどこか恍惚とした物言いだった。彼女の瞳孔は大きく開いていて、アランドにはそれがひどく不気味に感じる。
やがてまた分かれ道に戻ってくる。アランドは常に魔力の濃い方を選んで進んできたが、ユウナは彼が選ばなかった方へと進み始めた。アランドは思わず立ち止まった。
「ちょっと、そっちは……」
「音が濁った」
「え」
ユウナは足を止める。
「不協和音だわ。間違った方に進もうとすると教えてくれるの」
「は……? 不協和音……」
アランドはとても困惑していた。振り向いたユウナはアランドを見ているようで全く見ていない。
それは本能的な恐怖に近かった。能力も精神的にも弱く未熟だと思っていた少女が突如として、得体の知れない魔物に変貌したかのように思える。
逡巡したものの、アランドはひとまず彼女に従うことにする。後を追い始めたアランドを見て、ユウナはまた顔を背けて歩き始めた。
「……ああ、澄んだ音になったわ。これでいいって」
「…………」
アランドは何も言えなかった。これまで自身が選んできた道を信じ、彼女を力ずくで引き留めることも考えたがそれは実行には移さなかった。相手は『色違い』だ、そう簡単には止められないだろうし、魔力の無駄遣いだ。
結果として警戒しながらも大人しくユウナの後をついて歩くさまは、先ほどまでとは真逆だ。
「リュウくん、私を導いてくれるの? ここに来たときみたいに……」
ユウナが呟く。
こことはこの屋敷のことだろう。彼女はリュウと母親の隠れ家であるこの場所も簡単に見つけてみせたという。あの政府でさえ突き止められなかったというのに。
「だから俺には聞こえないんだけど。それ、信じていいもの?」
「ええ」
静かな声だが、ユウナは躊躇なく答える。
「……そうか」
アランドは頷く。
特殊属性を相手にするときに、最も悪手なのは迷うことだ。
それが今のユウナにないのなら、彼女を見届けるべきだと考えたのだ。これは彼女の任務なのだから。
「二人で弾いた曲の和音ね。綺麗な音」
ユウナは笑う。見えない楽器に触れるように、しなやかな指が宙を踊る。
「音楽は希望よ、私にとっても」
歩きながら、ユウナは歌った。
リュウと弾いた即興演奏は、元は神に捧げる歌の和音を使っていた。ユウナも小さな頃、故郷の町の教会でよくピアノを弾いていた。音も歌も、自然と思い出の中から溢れ出してくる。
小さな町だったから、教会が初等学校の学舎だった。だから教会で歌ったり、演奏することも多かった。皆で毎日、この世を守る光の神へと祈りを捧げた。
『色違い』であるユウナは、初等学校の卒業と同時に町を出てスピリストになる。
いずれ精霊の手を取り、神を裏切る運命にあるのだと知りながらも。
音楽に触れる時間はいつも、ユウナの中で輝いていた。
「……上だわ」
歌を止めると、ユウナは顎を上げる。目の前には壁。行き止まりだ。
「上? それならさっき階段の前を通り過ぎただろ」
「いいえ。ここよ」
アランドの怪訝そうな声をユウナは遮る。
口を噤むアランドの目の前で、ユウナは壁に触れた。同時に、高い音が壁から響く。
ユウナは壁に向かって足を踏み出した。
「ちょっ……え?」
ユウナの姿が壁に埋もれて消える。寸前、アランドをちらりと振り返った。促しているようだ。
アランドは顔をしかめたが、思い切って壁に飛び込む。身体は壁にぶつかることなく、どこか明るくて狭い室内に躍り出た。
「これは昇降機か……! 幻覚で隠してたのか」
「――上へ」
ユウナは目の前にあったボタンを押した。目の前の扉が閉まると同時に足下から振動が伝わり、上へと移動し始めた。
やがて再び高い音が鳴ると動きが止まる。扉が開くと、目の前にはまた大きな扉が見えた。
「……ここは? 音が止まった。リュウくん……?」
ユウナは目を見開く。
これまで見た屋敷の部屋のどの扉よりも大きく、重厚な扉だ。
「……教会?」
ユウナも無意識のうちに唇が動いていた。
この屋敷に来る前に、ユウナはケイたちとともに『アウロラ』の町の豪華絢爛な教会に立ち寄った。
町の人間に拒絶されることが分かっていても、その美しさに目を奪われ、気付けば教会の扉を開いていた。扉もまた豪華な装飾が施された、とても美しいものだった。
教会よりも小さいが、全く同じ扉が今、また目の前にあった。
ユウナは扉に触れる。そっと押すと、ゆっくりと開いた。




