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7-40 母と子


「……えっ?」


 それはこの屋敷に来た時に聞いた楽器の音だった。ピアノの音だ。

 決して遠い音ではないが、どこから聞こえてくるのか分からなかった。水蒸気に阻まれた視界の中で、懸命に耳を澄ませる。

 音はやがて連続して響くと、曲を奏で始めた。やがてそれが聞き覚えのあるものだということに気付く。


「これ……さっきの子供が弾いてた曲?」


 フレイアは音楽というものにほとんど馴染みがなかった。それでも、あの色違いの少年が奏でる音は心地よいものだと思った。

 身体が音に包まれるかのような浮遊感を覚える。翼は動かしていないのに、まるで夢の中に誘われるかのようだ。

 変わらず水の気配は感じる。それなのに手足からは力が抜けていくことに、フレイアは焦った。

 白い靄が晴れていく。

 徐々に色を取り戻していく視界に、フレイアは目を見開く。

 赤茶色の瞳に映ったのは俯瞰の光景だった。見覚えのある部屋だ。大きな黒い楽器にちょこんと咲いた、金色の頭が揺れている。


「な……なんで? ここってリュウ(あのガキ)の部屋?」


 フレイアは狼狽えるが、身体は思うように動かなかった。

 水と攻防を繰り広げていたのは廊下だった。視界が悪い中で飛び回っていたが、どこかの部屋の中に入ったとは思えない。その上今はかなり上方から見下ろしている状態だ。いくらフレイアが小さいとはいえ、部屋の天井がそれほど高いとは思えない。

 部屋の右半分に置かれた黒い楽器はピアノというものだ。金色の頭、『色違い』の少年リュウの指が躍って、それに合わせて音が奏でられている。


 ――悲しそうな音だ。


 フレイア自身も何故か分からなかったがそう思った。とても美しい音色なのに、全てを拒絶し、遠ざけているかのようだ。


「あのガキ……あ、もう一人いる。あの女は確か母親……」


 ピアノばかり見ていて気付くのが遅れた。ピアノから少し離れたところに、リュウを見守るように佇んでいる女性がいた。先にこの部屋から叩きだされる前に、リュウを守ろうとしていた黒髪の女だ。

 彼女は両手を臍の位置で固く握りしめ、怯えているようにも見える。片時もリュウから目を逸らさない。

 彼らの姿が少しずつ大きくなっていくことに気付いて、フレイアは焦った。フレイアの身体は漂いながらゆっくりと下降しているのだ。

 身体はまだ動かない。うつ伏せの姿勢のまま重力に従ってふわふわと落ちていくだけだ。


「って、これアタシ見つかるんじゃないの?」


 そう言いつつも、鉛のように重い翼は動かない。風に揺られるようにゆっくりと降りていく。もう頭上に近づいているが、彼らがフレイアに気付く様子はない。


「……リュウ」


 ふと、母親が口を開いた。直後、リュウが指を止めて音楽が途切れる。小さな頭が動くと、母親の方を見た。


「あなたのその才能を、私は決して無駄にはしない」

「…………」


 震える声だった。前髪の隙間からリュウの青い瞳が垣間見えた。

 母親が身を乗り出す。彼らの表情は見えなかったが、想像は容易にできた。


「あの『組織』なら私たちを助けてくれる。だから私はあの人たちについていこうと思うの」


 ふらふらとした足取りで近づくと、母親はリュウを抱きしめた。

 リュウは人形のように動かず、されるがままだった。

 ついにフレイアの指先がピアノに触れそうな高さまで降りてきた。同時にようやく翼に力が戻ってきて羽ばたく。ぎりぎりのところで再び浮き上がると、抱き合う母子の姿がすぐ目の前にあった。

 下を見ると、黒と白の板が規則正しく並んでいる。リュウが指で触れていた場所だ。ここを押して音を鳴らしているのだと理解したフレイアは、足先が触れてしまわないよう少し高度を上げた。真横には謎の線と記号がびっしり書かれた紙を乗せた台がある。


「一体何なの……こいつら」


 眉をひそめ、フレイアは呟いた。

 それが聞こえたのだろうか、リュウの髪がぴくりと揺れる。そのままゆっくりと、彼は振り向いた。

 青い瞳と視線が絡み合う。フレイアは身構えた。

 リュウの姿に重なって、何か別の影が見えたのだ。


「……アンタ、誰?」


 リュウから、いや、彼に重なる影から強力な霊力を感じ取る。

 既知の気配。嫌いな気配――水の霊力だ。

 フレイアは再び炎を纏う。リュウの目に赤い炎が映ったがふいと逸らされた。


 リュウは母親の肩をそっと押すと、彼女から離れる。フレイアの方に向き直ると、彼は手をのばしてきた。

 思わずそれを避けたフレイアには目もくれず、リュウはフレイアの後ろにあった紙を取り上げた。彼の右手には、いつの間にかペンが握られている。

 紙とピアノを交互に見ては、紙に何かを書き込んでいる。時にピアノを鳴らして何かもごもごと呟いては、フレイアには全く分からない線と丸に似た記号を滑らかに記していく。


「…………?」

「――お願い」


 その時、ピアノにも似た高い声が響いた。リュウのものでも母親のものでもない。しかしフレイアには誰のものか瞬時に分かった。

 それは水の霊力の持ち主。リュウに重なる影のものだ。

 フレイアは反射的に火球を放とうとするが、すんでのところで留まる。ここではリュウと母親を巻き込みかねない。


「……アンタが。アンタがアタシをここに連れてきたのね。一体どういう……」

「お願い。この子(・・・)の選択を待ってあげて」


 声がフレイアを遮る。フレイアは苛立ちに顔を歪めた。


「アンタ、やっぱり精霊ね! 表出なさいっていうか姿を見せなさいなっ……うっ」


 声を荒げようとしたところで、フレイアは再び身体の自由を奪われた。その場で直立したまま動けず、リュウの横顔から目を離せない。


「こんの……っ! 何すんのよっ」

「――お願い。どちらにしても、あと少しだから」

「…………っ!?」


 ついに口が動かなくなる。強まる水の霊力とともに、部屋の中が濃い霧に包まれた。



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