7-11 追放と追従
「……そういえば今更だけど、さっきのピアノを聞いてこの部屋に誰か来たりしないの?」
重い静寂を破ったのはハルトだった。
眉をひそめた彼の指摘に、こちらも今更のようにユウナが青い顔をして凍り付く。そんな彼女にケイとナオが心配そうに目をやるが、同時に怪訝に思う。
どちらかというと慎重なユウナが、こんな軽率とも言える行動をとったことも珍しい。しかもあれほど堂々と二人で演奏したのだから、誰かに見つかるならば曲が始まってすぐのタイミングでもおかしくない。今は曲が終わってからすでにそれなりの時間が経っているが、誰かが来る気配はない。
リュウは一度目を瞬かせる。まさしく「今更何を?」とでも言いたげだ。
「大丈夫だよ。ここは防音部屋だし、ぼくの音は家のものにも聞こえていないはずだから」
「は? ちょっと待て、それじゃおかしいだろ」
ケイが前のめりになって言う。リュウは表情を変えずに頷くだけだ。
「だってピアノを弾くくらいしかやることがないし。四六時中音が聞こえてたら家族にだって迷惑じゃないか」
「いやそこじゃねぇよ。外にいた俺たちには音が聞こえたんだぞ」
ケイを無視して、リュウはまたピアノに目を向ける。
愛おしそうに目を細めたリュウを見て、ユウナはようやく口を開いた。
「――やっぱり。あなた、音に魔力を乗せてる……?」
確信を持った声音だった。
ユウナの睨みつけるような視線を受けて、リュウはゆっくりと唇を吊り上げた。
「ああ、そうらしいね。最初はダダ漏れ状態だったみたいだけど、これでも少しずつ制御できるようになってきたんだよ」
「つまり、意図した相手に音を聞かせられるということ?」
「そういうこと。でもまぁ、このピアノの音以外はまだ難しいんけどね」
リュウは賞賛するように拍子を打った。
ユウナはぴくりと顔を強張らせるが、すぐに警戒で塗り替える。
ユウナは手を掲げる。
細い手首の上で、海のように綺麗な青い石が強い光を放った。
「今のあなたが制御どころか、精霊石がないのに自分の魔力を認識できるだけでも異常だわ。そんなこと一体どうやって。政府が知ったらますますあなたを放っておかないわよ」
「そうだね。けど、もうどうでもいいじゃないか。ぼくは今日政府に捕まるんだから」
「え……?」
戦闘態勢を取っていたユウナは、リュウの言葉に呆気にとられる。
圧倒的に力の差がある戦力を目の前にして、狼狽える様子も恐れる様子もない。ただ名残惜しそうに、黒いピアノにそっと触れた。
「母や教会の人たちはぼくをここに匿ったけど、逃げれられないことぐらいわかるさ。必死で逆らおうとしても、結局は何か困ったことが起これば政府に助けてもらわなきゃならないんだから。ぼくも町の人たちもスピリストみたいに戦えない。どれほど神様を敬っていたとしても、強くはなれないから」
リュウはピアノを鳴らした。
三つの音が同時に響く。どこか悲しげで、妖しい響きを持つ和音だった。
「音楽は希望だ。悲しいときだってピアノがあれば忘れられる。たとえスピリストになっても音楽を届けられるなら、ぼくはそれでいい」
鍵盤を見つめるリュウの横顔は揺らぎがなかった。
怖くないはずがないだろう。彼の覚悟を垣間見て、途端に彼が眩く見える。
「……なら、あなたは私と来てくれるの?」
おずおずと口を開いたユウナとは対照的に、リュウは迷わず頷いた。
「ぼくに選択権があると思う? どこへなりと連れていくといい」
「…………」
ユウナは唇を震わせた。言葉が上手く紡げない。
どれほどの想いを巡らせて、その言葉を発したのだろうか。
ユウナは閉じた口の中で歯を食いしばった。
「一緒に行きましょう、政府へ。私についてきて」
リュウに向かって、そっと手を差し出す。リュウは少しの間ユウナの顔を見つめると、やがて瞑目する。その手を取ろうと腕を持ち上げようとした、そのときだった。
「リュウ? お茶を持ってきたの、入るわよ」
部屋の外からノックの音とともにインターホンの音が鳴った。次いで扉横のスピーカーからは落ち着いた、しかし遠慮がちな女性の声が聞こえてきた。
「…………!?」
リュウを含め、部屋の中にいた全員が息を呑む。
誰かと隔てる薄い扉を勢いよく顧みると、リュウはそこで動きを止めた。
「か、母さん? ちょっと待って……」
リュウが上擦った声を絞り出すのも待たず、無情にも扉は開かれようとする。
退避する暇もなかった。それでも茫然としていた自身を叱咤し、ケイは反射的に踵を返して駆け出そうとする。窓の外へ飛び出せば、まだ姿だけは見られずに済むかもしれない。
一瞬遅れて、ナオとハルトもケイに続こうとする。未だ立ち尽くしていたユウナの姿が三人の目に映ったその時だった。
「きゃ……っ!?」
短い悲鳴をあげるとともに、ユウナの大きな目がさらに大きく見開かれる。一瞬不自然に彼女の周りの空気が震えたように見えたかと思うと、彼女は一瞬にして掻き消えた。
「ハルっ……」
「ユウナ!?」
ケイは思わず声をあげる。ナオがユウナに向かって手をのばし、駆け寄ろうとするが間に合わなかった。
同時に部屋の扉が開く。
現れたのは一人の女性だった。青白い顔を綻ばせていた金髪の女性は、部屋に入ろうとしたところで表情をこわばらせた。
「な……スピリスト!?」
甲高い声とともに、女性の手から滑り落ちた陶器が割れた音が響き渡る。
床に熱湯をぶちまけたことにも気付いていない。震える手で口を覆うと、視線を忙しなく動かして部屋を見渡している。やがて奥のピアノの傍で茫然としているリュウを見つけると、女性は髪を振り乱して叫んだ。
「リュウ!」
「母さん……」
張り上げられた声に、リュウは小さな肩をびくりと踊らせる。
目を真ん丸に見開きながら弱々しい声をあげた彼を見て、女性の顔がみるみる真っ赤に染まった。




