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7-9 神に捧げる即興演奏


**


 極力物音を立てないように注意しながら、四人は木々や壁を伝うと少年のいる窓にたどり着く。

 少年が窓から離れると、素早く部屋の中に滑り込む。全員が飛び移ったのを確認すると、少年はすぐに窓を閉めた。

 次いでカーテンを閉めると、少年はゆっくりと振り返った。


「ぼくの部屋へようこそ、スピリストさんたち。まぁ、ここは仮住まいだし、お茶のひとつも出せないけど」


 優しい顔立ちの中にどこか寂しさを感じる目元をそっと綻ばせると、少年は自嘲じみた声音で言った。


「なら、あなたは自分が追われていることは知っているのね」

「当たり前でしょ。そのためにここに連れて来られたんだから」


 少年は即答する。

 ますます訝しげな顔をするユウナに数歩近づくと、彼女と向かい合って立つ。

 ひとつ年下と聞いていたが、ユウナと比べてもかなり小柄だった。


「でも、それじゃあなぜ私たちをここに……」

「…………」


 少年はユウナをじっと見上げる。

 彼女の少し後ろで警戒を続けているケイたちなど、目に入っていないようだ。

 ふと、少年は踵を返した。


「あ、ちょっと……」


 ユウナの上擦った声を背中に受けながらも、少年は振り返らずに、部屋の奥の方へと歩いて行った。

 机やベッド、本棚など最低限の家具が置かれただけの質素な部屋だった。広い部屋の半分に押しやられるように並ぶ家具はどうにも配置が不自然だった。

 少年が壁らしいところに手をやると、薄暗かった部屋がぱっと明るくなる。同時に、その偏った家具の意味を理解した。

 眩しさに細めた四人の視界には、部屋の半分を占めるほど大きな二台のグランドピアノが飛び込んで来たのだ。


「ピアノ……!? それじゃあさっきの音は」

「…………」


 少年は驚くユウナを振り返ることもせず、吸い寄せられるように一方のピアノの前に座った。

 白黒の鍵盤の上に、小さな指先をそっと乗せる。

 そうしてまるで夢の世界に旅立つかのように目を閉じると、美しい旋律を奏で始めた。


「う、うわぁ……!」


 思わず歓声をあげたのはナオだった。握りしめた拳の中にこっそり隠していた火も一瞬で霧散させてしまうほどに、それは美しい音色だった。

 少年の十本の指が、別の生き物のように軽やかに踊る。

 力強い和音も、細やかな連続した音の流れ(アルペジオ)も、無地の壁を極彩色に彩るように聞くものを別世界へと誘う。

 少年は先ほどまでとはまるで別人だった。全身を使い、それでいて優雅に音を感じながら奏で続ける。


「この曲……神に捧げる歌……」


 反対に茫然と立ち尽くすだけだったユウナは、少年の姿に釘づけになりながらも、気付けばその歌を口ずさんでいた。

 幼い頃、故郷の町の教会で何度も聞いたことがある。神を讃え、敬い、感謝を述べるための曲。誰もが知っているであろう有名な歌だった。


 やがて数分間の演奏が終わると、少年はそっと目を開いた。

 最後の音の余韻を殺さないようにゆっくりと人差指を鍵盤から離すと、少年は顔を上げた。


「あ……」


 少年と目が合うと、ユウナはようやく短い声をあげる。

 同時に、頬に温かいものが伝ったのに気付いて驚く。いつの間にか、ユウナの目からは一粒の涙が零れていた。

 それを見て少年は一瞬目を瞬かせたのち、淡い笑みを浮かべて立ち上がる。

 柔らかいカーペットをゆっくりと踏みしめながら、彼はまたユウナの前まで歩み寄ってきた。


「……ぼくはリュウ。あなたの名前は?」

「……ユウナ」

「そ。ねぇ、ユウナさんって音楽やってるでしょ。ピアノが弾けるならぼくと一曲どう?」


 さも当然のように言うと、リュウは空いていた方のピアノを指差した。それにユウナは青い目を見開く。


「え……?」

「即興くらいできるでしょ? ぼくの音を辿って来れたなら」

「え、ええ。それくらいなら……」


 ユウナが頷くよりも早く、リュウはまた背を向けてピアノの方へと戻っていく。ユウナは彼を追いかけると、促されるままにピアノの前に座った。


「ちょ、ユウナ……!」


 不用心とも言えるその行動に、戸惑ったのはケイたちの方だった。しかしユウナもリュウも、お互いしか見えていないように振り向きもしない。


「それじゃあ、さっきぼくが弾いた曲の和音(コード)で」

「わかったわ」


 ユウナが頷くと、リュウはにこりと微笑んだ。

 ピアノに視線を落とすと指を乗せる。そうしてまた目を閉じると音を鳴らした。

 澄んだ和音。先ほど聞いた曲と同じだったが、リュウの紡ぐ旋律は違うものだった。それに合わせ、ユウナも音を鳴らしはじめる。


 即興演奏。楽譜などに依らずその場で演奏するというものだ。


 二人の間で飛び交う言葉の意味が全く分かっていなかったケイたちだったが、実際の演奏を目の当たりにして理解した。同時に、あまりに美しく壮大な旋律に声をあげることもできずに固まっていた。

 つい先ほど会ったばかりの二人が、まるで長年共に演奏してきたかのように美しいハーモニーを描いていく。

 向かい合うように並ぶ二台のグランドピアノ。

 それぞれを操る二人の奏者は、心底楽しそうに見えた。


 やがて、ユウナが弾いた和音を最後に、曲は終了する。

 音が部屋中に反響して消えるのを確認すると、二人は同時に顔を上げた。


「…………」


 ユウナは肺に溜まった空気を大きく吐き出す。呼吸さえも忘れていたかのように、肩は弾んでいた。


「……上手いね。そんなに上手いとは思わなかった。すごいや、あなたも弾き手になれるよ」


 リュウはユウナを見つめると、心底驚いた声をあげる。

 ユウナは目を瞬かせた。リュウの表情の読めない瞳はよく分からないが、感心しているのは確かなようだ。

 しかしその言葉に込められた皮肉に気づくと、ユウナは眉をつり上げた。


「それは、あなたも……」

「今の曲は教会でも十分弾けそうだね。ここに歌い手の歌を乗せればきっと皆すごく感動するよ。それくらい良い演奏だった。ありがとう」


 ユウナを遮ると、リュウは微笑んだ。その穏やかな笑顔に、ユウナは言いかけた言葉を飲み込んだ。


「……私も、とても良い演奏だと思ったわ」

「そうでしょ。こんなにいい気分になったのは、ここに来てからは初めてだ」


 含み笑いでそう言うと、リュウは立ち上がる。名残惜しそうにピアノを撫でると顔を上げた。

 ほとんど存在を忘れ去られていたケイたちに、リュウはようやく目を向ける。

 かける言葉が見つからず立ち尽くしていたケイは、リュウと目が合ったことで我に返った。


「おい、お前は……」

「んで、気は済んだのかしら。さっさと本題に入ったらどうなの」

「え?」


 ケイが何かを言いかけたが、今度は別の声が彼を遮る。ナオの鞄が器用に内側から開けられると、フレイアが顔を覗かせていた。


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