7-8 そこにいるんでしょ?
「あっ……!」
ユウナは勢い良く屋敷を顧みた。
そこで、今度は自身だけでなく、全員の視線が同じ方に向けられていることに気づく。
「今の、ピアノの音だよね」
言うと、ハルトは屋敷を親指で示しながらユウナを見る。
「私にも聞こえた。ポーンって高い音」
「俺も聞こえた」
ナオ、ケイも続けて言う。ナオの頭の上に着地したフレイアも、表情を見る限り同様のようだ。
「みんな……?」
ユウナは目を丸くした。何故今回は全員に音が届いたのだろう。
考える間もなく、再び音が響く。
先ほどは単音だったが、今度は和音だ。澄んだ響きを持つ、明るい音だった。
薄暗い空に溶けて消える音は、まるで手招きされているかのような不思議な感覚を覚える。
気付けば皆で、それを追うようにして駆けはじめていた。
「あっちだ」
先頭にいたケイがそう声をあげるが、皆の足取りは迷いがなかった。
塀が大きく右側に曲がっている所まで来ると、ケイは足を止める。慎重に顔を覗かせると、死角になっていた先の様子を確認する。
生い茂る草木と高い塀が続く。来た道と同じような光景には、人の気配はない。
その時、待ち構えていたかのようにまた音が響く。
極力足を忍ばせながら走って行くと、四人はやがてそれぞれが足を止めた。
「このあたりか」
塀を見上げると、ケイは思わず舌打ちをする。その向こうの屋敷はやはりほとんど見えない。
「ケイ、上から行こう!」
甲高い声が背後から飛んでくる。振り返るとナオはすでに地面を蹴り、手近な木の枝を掴んでいたところだった。
身体を捻ると小さく回転し、木々を伝ってあっという間に上へ登る。見事な身のこなしに思わずユウナが嘆息していたが、彼女も慌てて跳躍した。
「あの部屋も明かりが点いてるね」
枝葉に身を隠すと、ナオは声をひそめて言う。
暗いところでは光が目立つ。汗が滲む彼女の顔を、左手首の精霊石が淡く照らしている。ナオは慌てて右手で手首を覆った。
「確かに誰かいるわね。あの部屋、奥で影が動いてる。小さいからたぶん子供よ」
道中で再び鞄に収納されてしまっていたフレイアが、隙間から顔を覗かせた。
その時、ようやくケイたち三人もナオに追いついて来た。高く開けた視界から銘々に屋敷を観察するが、窓の向こうはよく見えなかった。
「すごい。よく見えるねフレイア」
「あのね、そりゃ人間の視力なんて精霊とは比較にならないわよ」
鞄から首だけ出すと、フレイアは不服そうにナオを見上げる。それでもすぐにまた窓の方へと視線を戻すと、ナオも表情を引き締めた。
「そっか、ありがとうフレイア。小さい影だね、それならいろちが……」
「そうそう小さい影……って何ですって!?」
「ぷゃ?」
頷きかけたところで、フレイアは再び勢いよくナオを振り仰いだ。
怒りを十二分に表現した表情のフレイアに対し、ナオは気の抜けた声をあげて顔を引き攣らせる。フレイアの禁止語句に気付いたがもう遅い。
「だぁれが……」
「しーっ! ごめんだったから今はやめてっ」
今にも炎を吐きだしそうなフレイアの口を慌てて塞ぐ。フレイアが苦しそうにもがいていたが構っていられない。
「おいバカ、静かにしろって……」
狭い木の上でじたばたと暴れる二人に、呆れたケイが手をのばそうとする。
それよりも早く、またピアノの音が響く。
今度は三つ。異なる和音が連続し、軽やかに紡がれた。
「また……!」
これにはナオとフレイアも動きを止めると、フレイアは窓に向かって目を凝らす。彼女の尖った両の耳がぴくぴくと動いた。
「間違いないわ、あの部屋からよ……あ、影が動いたっ」
フレイアは小さな手をのばすと窓を指さした。
皆でそれを追うと、薄明かりの窓の奥で、確かに影が揺らめいたのを視認する。
影はだんだん大きく、濃くなっていく。おそらく窓に近付いてきているのだ。
「――気付いた!?」
ナオの少し後ろで耳を澄ましていたユウナが小声とともに身を乗り出した。
緊張が走る。
窓にはくっきりと人影が浮かび、端には手がかけられていた。
窓を開けようとしているのは、果たして偶然だろうか。
高い塀と広い庭を挟んでいるので、ケイたちが潜む場所からはかなり距離がある。その上窓を閉めているのに、一般人に気配を察知されたとは思えなかった。
皆で息を殺し、極力発動を弱くして気配を隠す。
そうして、ゆっくりと窓が開いた。人影は徐々にその姿を晒していく。
「男の子……」
窓の外を見渡すのは、一人の少年だった。薄闇の中でも目を引く明るい金色の髪が、部屋の中の明かりを受けて光って見えた。
遠目に見ても小柄な少年だ。少なくともケイたちより年下なのは間違いなさそうである。
少年は何かを探すように、視線を斜め下に向けてゆっくりと首を動かしている。庭に誰かいるのだろうか。
しばらく目を凝らして少年を観察すると、ユウナは弾かれたように顎を上げた。
「あの子……間違いないわ、写真で見た子よ」
ユウナは手に持っていた携帯電話を握りしめる。
「そうね、アタシにも同じ顔に見えるわ」
フレイアも頷く。
その時、彼女らの言葉が届いたかのように、少年は動きを止めた。
警戒する間もなかった。少年は迷いのない動きで顔を持ち上げると、真正面から視線が絡み合った。
「――いるんでしょ、そこに。スピリストさん」
耳元で囁かれるように、静かな声が聞こえてきた。
「えっ……!?」
思わず声をあげると、ユウナは後ろを振り返る。
同じように驚愕の表情で辺りを見回す仲間たちがいるだけで、少年の姿はない。
「な、なに……?」
震える唇でそう呟くと、ユウナは再び屋敷の方を見る。少年の姿は変わらずそこにあった。
じっとこちらを睨みつけたまま微動だにしない。ユウナはまた息をのんだ。
警戒と同時に強まる発動がもたらす魔力が視力を高め、少年の外見の情報をつぶさに伝えてくる。
「そこにいるんでしょ?」
畳みかけるように、また同じ声が届く。ケイやハルトよりもずっと高い男の子の声だ。同時に、少年の唇がほんの少し動いたように見えた。
混乱する頭の中をどうにか落ち着かせようと、ユウナは無意識に胸元の服を掴んだ。
返答がないことに苛立ちを覚えたのか、少年の細い眉がぴくりと持ち上がる。
彼の小さな唇がまた動いた。
「隠れてないで入って来ていいよ。今この部屋にはぼくしかいない」
今度は呆れたような声音が混じる。
静かだが、明らかに確信を持った口調だった。
「……どうする、ユウナ」
ハルトの低い声に、ユウナはびくりと肩を跳ね上げる。
戸惑いに揺れる瞳を後ろに向けると、揃って訝しげな顔をした仲間たちがいた。少年の声は、彼らにも聞こえているらしい。
「……確かに、他に人の気配らしいものは感じないわね」
ナオの鞄から這い出ると、フレイアは慎重に辺りを探る。
フレイアと同意見だ。ユウナにも少年以外の誰かが近くにいるような気配は感じられなかった。
ユウナは携帯電話を立ち上げると現状を手早くメールにしたためた。
「……政府に報告して、動くわ」
そう言って送信ボタンを親指でタップすると、携帯電話を荷物に押し込んで立ち上がる。
驚いた表情を見せた仲間たちに背を向けると、意を決して足を踏み出す。太い枝の上を数歩分渡ると、ユウナは薄闇の下に姿を晒した。
彼女のピンク色の長髪が、魔力に煽られて大きく広がる。それを見て、少年の表情がみるみる驚きに満ちていった。
塀も草木も超えた高さで視線が絡み合う。しばらくの間、二人は無言のまま睨み合った。
「――こんにちは、色違いの人だね。ぼくと同じだ」
先に口を開いたのは少年の方だった。
相変わらずすぐ側で直接囁いているような不思議な声に、ユウナは目を細める。
「そんなに警戒しないでよ。そうしたいのはむしろぼくの方だよ」
少年は皮肉げに笑うと、小さな手をユウナに差し出すように持ち上げた。
天使のように柔らかそうな金糸の髪が、それに合わせてふわりと揺れた。
「ようこそ、あなたはぼくと話がしたいんだろう。後ろの人たちも一緒にどうぞ」
さも当然のように、少年は言う。それに驚愕したのは、隠れているつもりだったケイたちの方だ。
「……気付かれていたのか」
舌打ち混じりにそうこぼすと、彼らもその場で立ち上がる。
少年は微笑を浮かべたまま、彼らに差し出していた手をすっと右に動かした。促されるままそちらを追うと、庭の一部にも大きな木が生えているのが見える。
そこから部屋に来い、ということだろうか。
常人には超えられない高さだが、スピリストの身体能力をもってすれば十分可能だろう。
「あいつ、なんでわざわざオレらを……」
反対にこちらが警戒の念を抱かずにはいられない。わずかでも焦る様子もない少年に、ハルトは眉をひそめた。
この場所に身を隠している以上、自身が追われていることも分かっているはずだ。それができないほど彼は幼いわけではない。
発動を強めると、ハルトの全身から魔力が迸る。
「…………」
やはり妙な気配は感じない。少なくとも近くにスピリストはいないようだ。
ハルトは右手に魔力を凝縮させると、短めの剣を一振り生み出した。
鋭く光る刀身を見て、少年がやや顔を強ばらせた。
「罠でもあるってのか?」
「いいわ。行ってみましょう」
「え? ちょっとユウナ?」
ユウナはハルトの右手にそっと触れると、すぐに枝を蹴って塀の上へと飛び移った。
軽やかな彼女の後ろ姿を、ハルトはぽかんと口を開けながら追う。構えていた剣の切っ先は、彼女の手によって下を向いていた。
それが意味することを理解すると、ハルトは手に持っていた剣を霧散させた。
「……わかった。ユウナ、お前がそう言うのなら」
言うと、ハルトは背後を小さく振り返る。
ケイとナオは無言で頷くと、三人もまたユウナを追って跳躍した。




