7-0 シュウと紫水晶と(☆)
**
ひとりの青年が、薄暗い廊下を足早に歩いていた。
どこまでも続いているように見える回廊に、こつこつという乾いた足音を響かせる。青年と彼の細長い影だけが、西日に怪しく照らされた壁を遮り、流れるように移動していく。
『雷』のスピリスト、シュウ。
彼は今、いつも気まぐれに呼びつけてくる少女の元に馳せ参じようとしていたところだった。
シュウには主とも呼ぶべき一人の少女がいる。
実際は彼が所属する組織のリーダーなのだが、少女にとってシュウは都合よく言うことを聞いてくれる駒でしかない。しかしそれに甘んじているのはシュウの意思である。
廊下の奥にある部屋の前で足を止めると、シュウはノックもせずに扉を開ける。
最低限の家具だけが置かれただけの簡素な室内。ひとりの少女が、大きな窓を背にして佇んでいた。
振り向いた彼女の瞳が、夕暮れの光を反射して怪しく光る。
感情を映さないそれがひどく美しくて、シュウはごくりとのどを鳴らした。
「――呼んだか。紫水晶」
極力平静を装い、少女の通り名を口にする。
背は高めだが華奢な体躯。腰まで届く長いツインテールは逆光でつぶれ、暗い影だけが揺れて見えた。
少女はそっと唇を動かすと、静かな声で告げる。
「報告があったの。また新たに『色違い』を見つけたそうよ」
シュウの眉がぴくりと跳ね上がる。
政府では各地に存在している色違いの情報が管理されている。
各地に派遣されたスピリストが偶然見つけることもあるが、彼らの多くはヒイロやユウナのように、その特異な容姿から見た目に明らかだ。多くの場合は彼らを疎んだ住民たちから政府に通報される。幼い子供がほとんどで、生まれたばかりの赤子であることも少なくない。存在を知られたその日から成長するまで、彼らは政府の監視下に置かれる。
そうして初等学校を卒業したその年に、政府に召集されスピリストとなる。
彼らの全ては、政府の戦力となるために存在するのだから。
そして今回見つかったという新たな『色違い』の情報は、すでにシュウの耳にも入っていた。
「ああ、聞いている。それですぐに迎えに行かせたんだろう。確か彼はもう初等学校を卒業した年齢だったはずだ」
「ええ。けれど、『色違い』は同行を拒んだらしいわ」
「……そうか」
短い睫の影がシュウの瞳を覆う。彼の表情は悲しげだった。
色違いが命令に従わず、スピリストになることを拒絶する。
なにも珍しい話ではない。
彼らにも意志がある。天涯孤独な者もいるが、彼らを愛し守ろうとする家族や恋人がいることも多い。
少女がわざわざシュウを呼びつけてまで話を切り出してきた時点で、何となく察していたことだった。
同時に、少女がこれからどうするつもりかということも。
「だが、お前は許さないだろう」
「当然よ。政府の命令に背くならば『裏切り者』と同じ」
少女は唇を吊り上げる。見るものに恐怖を与えるような美しい笑みと共に、低く短い笑い声を含ませた。
「あたしは今からあなたを連れて任務に向かう。その間に、『色違い』にはもう一度迎えを寄越すわ。それでもまだ拒否するなら容赦はしない。あたしの任務はただ、裏切り者を屠ることだけ」
「……しかし」
シュウは顔を曇らせる。
容赦しない。
それはつまり、従わないなら殺せと彼女は告げている。
相手が年端も行かぬ子供であっても関係はない。
口ごもるシュウに向けられる少女の表情は、氷のように冷たかった。
「シュウ。例の組織に……政府に刃向かう裏切り者たちに本部を襲撃されて、あまつさえ精霊石を奪われたこと。あたしはまだ許していないわ」
少女の声に、室内の空気が張りつめる。
暑くもないのに、シュウの額にじわりと汗が滲んだ。
「……わかっている」
口から漏れ出た声は、シュウ自身も驚くほど弱々しかった。
少女はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、机に置いてあった機材を手にする。大きな携帯電話のような通信機材だ。その画面に繊手が触れると、明るい光を放って機動した。
少女は画面に目を落とす。その中には、シュウの既知の姿が表示されていた。
先日シュウが担当した任務で捕らえ、現在政府の監視下に置かれているスピリスト。大きなテンガロンハットが印象的な、長い赤茶色の髪をした女の子だ。
シュウの視線に気付いた少女は、画面をそっとなぞった。
「この間の『カリス』の町で、盗まれた精霊石が使われていたこと。彼らの実験台になったこの子の名はリサと言ったかしら、あの一件ではっきりした。彼らは少しでも多くの戦力を集めようとしている。これ以上野放しにするわけにはいかないわ」
「……ああ」
シュウは小さく頷く。
裏切り者。クロ。
政府から逃げだしたもの。
政府に刃向かうもの。
そして、政府に恨みを持つものたち。
それは今、確かに政府を脅かす存在となっている。少女の言うとおり、このまま放置するわけにはいかない。
それはシュウが己の全てを賭け、守ろうとしているものを守るためにもすべきことだった。
――叶えたい願いのためだ。
全てを飲み込むように、喉仏が上下した。顔を上げたシュウは、今度は揺らぐことなく真っ直ぐに少女を見つめる。
少女はそんなシュウを見て、どこか満足したように微笑った。
彼女は不意に、シュウを越えた先へと視線を動かす。
「……それで。あたしに何か用かしら、ユキヤ」
「何?」
瞠目すると、シュウは背後を勢いよく振り返る。
扉が閉じられた室内には、シュウと少女以外の姿はない。しかし確かに誰かの気配を感じて、シュウは身構えた。
「見つかっちゃったかー。さすがだね紫水晶」
突如、わざとらしい衣擦れの音と、どこか間延びした声が響く。
扉の前の空気がゆらりと揺れたかと思うと、魔力の気配とともに無数の色の粒が凝縮していき、ひとりの男の姿を象った。
汚れと皺が目立つ白衣姿の、ぼさぼさ頭の小柄な男。
政府研究室所属、『幻』の能力を持つスピリスト、ユキヤだった。
「あなたは……いつの間に?」
警戒するシュウに、ユキヤはしまりのない笑顔を向けて手を振る。まるで友人と偶然出会ったかのように馴れ馴れしい。
頭の奥で何かが軋んだような音がして、シュウは分かり易く顔を引き攣らせた。
ユキヤのことは苦手だ。変幻自在な彼の能力も恐ろしいが、何を考えているかわからないので信用ならない。
対する少女は興味なさげに、僅かに首を傾げてみせただけだった。
「何か用? わざわざ隠れなくても話くらい聞くわよ」
見透かしたような声音だった。
ユキヤと少女、二人の視線が絡み合うようで、お互いを見ていない。
まるでそれぞれが違う空間に立ち尽くしているようだと、シュウには感じられた。
「特に何も。強いて言うなら『色違い』と聞こえたからつい足を止めてしまっただけだよ。僕の部下、スゥもそうだからね」
「そう。安心してちょうだい、あなたには関係ないわ」
「ああ、その画面に映っている女の子、例の無所属だったスピリストだろう。シュウくんと一緒に彼女を捕まえた子たちに僕も以前世話になったことがあって。まだ子供なのに優秀だよね。彼らは僕の精霊を鎮めてくれた」
「…………」
飄々と掌を上に向けたユキヤに、少女は僅かに目を細める。
少女は通信機材を手早く操作すると、画面が切り替わる。
女の子の姿は消え、代わりに別の四人の顔写真が表示されると、少女はそれをユキヤに見せた。
「あなたが言っているのはこの子たちのことね。彼らがどうしたの?」
抑揚のない口調の中に、どこかわざとらしさが混ざる。ユキヤは唇をつり上げてみせた。
「やはり、『色違い』の召集任務は彼らに任せるのかい」
「ええ」
思惑通りという顔だ。それを見て、少女は目元に嫌悪を滲ませた。
「彼らは……」
画面の中の人物を見ると、シュウは目を見開いた。
忘れもしない、この短期間で何度もシュウの任務に関わった三人組のスピリスト。ケイ、ハルト、ナオと言う名の子供たちだ。
そしてもう一人、色違いの少女が加わっている。三人は今、この少女と同行しているようだ。
「またこいつらか」
シュウがぽつりと呟く。
少女はそんな彼を見やるが、すぐに興味なさげに目をそらした。
少女は通信機材の画面を消して机に戻した。振り向くと、変わらず笑みを貼り付けているユキヤをまた見やる。
しばらく睨み合うと、少女はふと、小さなため息を漏らした。
「そうね。わざわざ出てきたのなら、あなたにも協力してもらおうかしら。ユキヤ」
「おや、きみがそう言うのは珍しいね。僕なんかができることならなんなりと」
「あたしは忙しいの。いち『色違い』にさく時間がないだけよ」
吐き捨てるように言うと、少女はユキヤに背を向ける。
ポケットから携帯電話を取り出して画面を確認すると、足早に部屋を出ようとした。
目の前を通り過ぎる少女を、ユキヤは止めようとしない。
彼が求めていた言葉は、すでに手に入れたのだから。
「――了解した。それなら彼らの手助けのため、僕の部下を送り込もう。何かまたおかしなことが起こるとも限らないから」
「どういうことだ?」
怪しい笑みを浮かべたユキヤに、それまで黙っていたシュウが声をあげる。
「任せたわ。行くわよシュウ」
シュウがユキヤに詰め寄るより早く、少女の急かす声が響く。
すでに廊下へと足を踏みだしていた少女の長髪が揺れて、彼を振り返った。
「ミナミ、お前……!」
「気安く名前を呼ばないでくれる」
「……っ。紫水晶、こんな胡散臭い奴になぜ……」
シュウの抗議は、少女の冷たい声に阻まれる。
彼の言葉など聞こうこともせず、少女は足早に廊下を歩いて行く。
「……くそっ」
部屋に残ったユキヤに唾棄せんばかりの声を吐き捨てると、シュウは仕方なく少女を追いかけた。
遅れて、ユキヤもゆったりと部屋を出る。
小さくなっていく少女の後ろ姿を見送りながら、彼はそっと呟いた。
「ああ。たとえ何かを失うことになったとしても、我々研究員は政府のため、できる限りの戦力は守ろう。紫水晶……ミナミ、それがきみの望みなら」
ユキヤの声が聞こえたのだろうか、少女はふと振り返った。
少女の綺麗な紫色の目が、薄暗い廊下で鋭く光って見えた。それはまさに紫水晶――彼女の通り名のように美しく、冷たい瞳だった。
長いツインテールが翻る。
闇にとけ込むようにして、少女の姿は見えなくなった。




