6-32 自由を求めて
*
ヒイロは海を望んでいた。
海と陸の境目に立つ彼女は、恍惚とした表情を浮かべながら佇んでいた。
美しい海は今や荒波が立ち、火山島を中心に異様な色に染め上げられていた。溢れ出た溶岩や火砕流が海を浸食し、町に這い寄ってくる。大地は絶えず唸るような音をあげていた。
火山島の火口からは、巨大な塊がゆっくりと空を覆いながら近付いてきていた。特定の形を持たない粘性生物のようにうねりながらも、その大きな腕を広げているかのよう。
それを真っ直ぐに見つめるヒイロは恐れるどころか、まるで待ち望んでいるかのように、こちらも真横に両腕を広げていた。
その小さな手や靡く赤い髪にまとわりつくようにして、十もの火の玉たちがくるくると動き回っている。
「そうよ、あなたたちのおかげで私の願いが叶うの。こんなにうれしいことはないわ」
すり寄ってきた火の玉に、ヒイロは笑みを浮かべる。静かだが弾んだ彼女の声に、火の玉はその場でさらに跳ねた。
「ヒイロ!」
その時、ヒイロの後ろから空を割るかのような甲高い声が降り注いできた。
ヒイロは瞼をぴくりと動かすと、ゆっくりと振り向く。小さな火の塊が彼女に向かって真っ直ぐに飛んできていた。
ヒイロは笑みから一転、鬱陶しげに眉を寄せる。彼女の目の前で火は弾けて、肩を大きく弾ませているフレイアが現れた。
フレイアは荒い呼吸を整えることもせず翼を広げ、ヒイロに詰め寄ろうとする。しかしそれは飛び回る火の玉に阻まれ叶わない。
「ヒイロ、しっかりなさいな!」
迂闊に攻撃することもできず、フレイアはヒイロに向かって呼びかける。
ヒイロは動かない。彼女の明らかな拒絶の表情に、フレイアは言葉を失う。
「どうしたのよ、ヒイロ……!」
「…………」
ヒイロは答えない。火の玉を纏ったまま、向かい合う小さな精霊をじっと睨みつけていた。
火山から噴き出した灰や軽石が空を真っ暗に染めていく。明るい炎を従えた彼女らだけが、その場で淡い輝きを放っていた。
小さな噴石が降り注いでくる。身体の小さなフレイアはたまらず、再び火を纏うと自身を守る。慌ててヒイロを見ると、噴石は彼女の周りで弾かれて地面に落ちた。火の玉たちが守っているのだろうか。ひとまずは落下物による怪我の心配はないようだ。
「…………」
フレイアは火の玉たちを睨みつけた。
おそらくこの火の玉たちが初等学校に、ヒイロの元に向かっていったものだ。町に降り注いできた他の火の玉と違い、各々が強い霊力を持っていることがわかる。
火の玉たちも火山で生まれた精霊に近い存在なのだろう。ひとつひとつはフレイアほどの霊力は持たないが、それでも数が多い。さらに一連の出来事から、人型を取らないがある程度の自我を持っていることが推測できた。
フレイアの翼の炎が燃え上がる。
火山が噴火してから自身の中でさらに霊力が高まっていることに、フレイアは気付いていた。
「……何なのよ、あれは」
火山から這い出てきた不気味な粘性生物をじっと見つめながら、フレイアは唸る。
言いつつも、辺りを覆い尽くそうとしている強力な霊力は、まさにその巨大な何かを中心として広がっていることがわかる。
フレイアはその大きすぎる霊力に畏怖するどころか、体の奥深くから燃え上がるような熱さを感じていた。
「そう。あの変な塊を操っているのが、アタシの親ってことね」
蠢く火山を見て、フレイアは全てを悟る。
共鳴する霊力は、フレイアにとってごく近しいものだと如実に告げていた。
火山の目覚めとともに溢れ出す何か。フレイアや火の玉たちは、その幼き分身のようなもの。
「――おはよう」
「おはよう、おとうさま」
「ずっとまってた」
「すうひゃくねんかん」
「あいたかった」
「おとうさま」
「みんなまってた」
「おはよう」
甲高い子供のような声が、幾重にも響きわたる。
フレイアは眉をひそめると、ヒイロの周りの火の玉たちに目をやる。何度も反響するように聞こえたが、声の主は火の玉たちだろうか。
「……おはよう、か。別に起きてくれなんて頼んでないわよ」
フレイアが毒づく。その間にも粘性成物や溶岩はゆっくりと、確実に近付いてくる。
それらは海に面したこの岬に舵を取り、進行方向を変えている。やはり向かう先はこの場所、ヒイロだ。
ここに佇んでいては、彼女は間違いなく命を落とすだろう。
フレイアは再びヒイロに向かって声を張り上げた。
「ヒイロ、しっかりなさいな! 早く逃げてちょうだい、死んじゃうわ!」
「ちがうわ、自由になるの」
フレイアの祈りを込めた叫びは、冷たいヒイロの声音に阻まれる。
ようやくフレイアに応えたヒイロの目はひどく虚ろなままだった。しかし、その口元には淡い笑みを浮かべている。
「これでやっと私も飛べる。ずっとあなたがうらやましかったのよ、フレイア」
「そんな、何を言ってるの……?」
愕然とするフレイアに、ヒイロはうっそりと目を細めた。
フレイアと話をしているとき、ヒイロが時折見せるぎこちない笑顔はどこにもない。
吹き荒れる風にヒイロの髪が大きく膨らむ。火の玉たちを従えて嗤う彼女は、まるで別人だった。
「じゃまをするな、フレイア」
「おまえはぼくたちのきょうだい。そしてこのむすめも」
火の玉たちが飛び回りながら揺れている。それに合わせてまた高い声が響いた。
フレイアはそれを鋭く睨みつける。ヒイロから最も離れた位置に漂う火の玉に、素早く火球を放った。
火の玉は軽く旋回すると火球を躱した。まるで嘲笑うかのように軽やかだ。
「違うわ、ヒイロは人間よ! 弱くて、泣いてばかりのただの人間の子供よ! だってヒイロは……きゃっ!」
髪を振り乱して叫ぶフレイアだったが、最後まで言うことなく遮られる。お返しと言わんばかりに、火の玉もまた炎をフレイアに放ったのだ。
すんでの所で飛び退ると、フレイアもなんとか炎を躱す。
歯を噛みしめて火の玉を睨みつけるが、今度は別の方向から容赦なく炎が飛んで来て被弾する。
「きゃあっ!」
衝撃に吹き飛ばされたフレイアは文字通り宙を舞う。
翼を動かして体勢を立て直すと顔を上げる。追撃はない。しかし、ヒイロからは離された。
ヒイロはフレイアを一瞥しただけで、興味なさげに背を向ける。再び海の方へと向くと、どんどん空と海を浸食して近づいてくる赤色をまた見つめていた。
フレイアはヒイロに手をのばす。
翼を一度大きく動かせば届く距離だ。しかし、フレイアにとってはまるでヒイロが遠い、空の向こうにいるように感じられて動けない。
何も掴めない手をゆっくりと握りしめる。
火の玉たちだけがヒイロに寄り添い、彼女の周りを絶えず飛び回っていた。
「……ヒイロ、アンタはアタシとは違うわよ……」
絞り出すようにそう言うと、フレイアはふと空を見上げた。
大好きな青空は、今や一面が灰色に覆われて見ることができない。
「……自由じゃなくても。憧れを持つことの何が悪いというの」
ぽつりと落とされたフレイアの言葉を拾う者はいない。
代わりのように、また轟音が響き渡ると大地が激しく揺れた。
「そうでしょ……ねぇ答えてよ、ヒイロ!」
フレイアの叫び声は、地鳴りと混ざり合いながら虚しく響く。
その間にも、火口からは次々と赤いものが吹き出し、火砕流は火山の肌を滑り降りる。何より、空から迫る灼熱の霊力はもう町のすぐそばまで近づいてきていた。
ヒイロは再び海へ向かって手を広げる。
綻んで見えたその横顔を、吹き荒れる熱風が叩いた。




