1-14 精霊の願い
「じゃあオレらも行きますか、ケイ!」
突進してきた精霊の斬撃を剣で弾くと、ハルトはケイの真横に着地する。しかしケイは首を振ってそれを制した。
「いいや」
精霊は今にもまた襲いかかってきそうに、二人に爪を向けている。獣のような唸り声をあげるその口には小さな牙が見え、その目は限界まで見開かれていた。
しかし
「こいつは俺がやる」
「おりょ?」
静かに言ったケイに対し、ハルトは心底意外そうに目を瞬かせた。
しかしその直後、彼は何かを悟ったかのように唇を僅かにつり上げる。そうしてあっさりと踵を返し、行ってこいと手をひらひらさせその場を離れた。
「グルルルルル……!」
「…………」
精霊が唸り声をあげながら威嚇する。ケイは精霊と正面から睨み合った。
ひときわ大きい咆哮をあげ、精霊はケイに襲いかかる。鋭い爪が凄まじい速さで頬を掠めた。ケイは一歩後ろに退がってかわし、体勢を整えると、右手をぐっと握りしめた。
体の周りに渦巻いていた冷気が目に見えるほどに増していき、あたりはまるで吹雪が起こったかのようにバキバキと音をたてて凍り付いていく。そしてその強い冷気はケイの両手に収束した。
「――俺の力は、全てを凍らせるだけのものだ」
ケイは静かに語りかけた。
「ただ凍らせ壊すだけの能力だ。俺にはこの森にもう一度命を蘇らせることなんてできない。お前のことも」
「キィイイイイ!」
精霊は聞く耳を持たない。我を忘れ、また突進を仕掛ける。一時も攻撃をやめようとはしなかった。
しかしケイは立ち尽くしたままだった。爪や風に斬りつけられるたび、赤い鮮血が舞う。
精霊は一度大きく飛び退った。
「俺たちスピリストは、この力を手に入れるために多くのものを犠牲にしてきた。だから俺は、俺にできることをしなければならない」
――風が鳴く。
嘆くかのように、あるいは哀れむかのように。
ケイは向かって来た精霊の額に、その手をしっかりと押し当てた。
「ギャアアアアアア……ッ!」
あっと言う間に精霊の身体の大部分が凍り付き、凄まじい悲鳴が轟いた。
わんわんと幾重にも、音が暗く乾いた森に木霊する。いつまでも響くそれは、森自身が悲鳴をあげたかのようだ。
「……っ!」
息が詰まる心地だった。
ナオの背後で、シルキをはじめとする町民たちは愕然としていた。
シルキは反射的に目を背ける。
自分にはどうしようもない、怖くて悲しくて見ていられない。唇を噛みしめてぎゅっと目を瞑り、耳を塞いでしまいたい。
「――目を逸らすな」
間髪入れず、厳しい声音が降ってくる。シルキはハッと顔をあげた。
いつの間にか、すぐそばで金髪の少年が腕を組んで佇んでいた。
目の前の光景から、起こっている全てのことから、ハルトは片時も目を離さずにいた。
ハルトはそこでようやく、肩越しにサトリたち討伐隊を振り返る。声音と同じ鋭い視線を彼らに向けた。
「あんたらもだよ。精霊たちのこと、森のこと。最後まで見届ける義務が、あんたらにはあるんだ」
返事を待たず、ハルトはぷいと顔を背けた。動揺を隠せないサトリたちの気配が伝わってくる。
シルキはまた泣きそうになるのをこらえ、つんとする鼻をすすった。
「……うん」
小さくても力強くそう言うと、シルキはしっかりと前を向く。それを見て、ハルトは僅かに笑みを浮かべた。
「――これで終わりだ」
全身を氷漬けにされ浮力を失った精霊の目の前に、ケイは冷気が溢れる手を沿わせる。
精霊の姿はケイと比べてもかなり小さい子供のもの。しかし彼は、今日までこの森を守ってきた存在そのものだ。
「俺はスピリストとしてお前を消す。そうすれば、お前の願いを聞いてやれる」
精霊の顔とケイの手のひらの間に、冷気が全て凝縮されていき、淡い青の光の玉をかたどった。
「……――て」
「!」
それは精霊の、本当にかすかな声だった。
しかしケイの耳には驚くほどはっきりと届き、ケイは目を見開いた。
閉じこめられた氷からわずかに出ていた精霊の片目から頬に伝い、一筋の涙が流れた。
「……――ころして」
ケイは頷く。そしてそのまま何の躊躇もなく、手の中の光の玉を精霊に放つ。
氷とともに砕け散る、精霊の小さな身体。
その顔は確かに、優しく微笑んでいた。
「――ナオ! ハルト!」
ケイは振り返り、声を張り上げる。それと同時に、三人はそれぞれ地面を強く蹴って大きく跳躍する。
その直後、崩れた精霊の身体が強い閃光を放つ。そこから空を突き抜けんばかりの突風が吹きあがり、木々や石を彼方へと飛ばし上げた。
三人は手近な木々を伝い、高く高く上っていく。
そのとき、轟音とともに空中で風が爆発し四散した。
「うわああああ!」
立っていられないほどの突風だった。木にしがみつくシルキを、サトリは必死で押さえて守る。
「う、うわああ!」
舞い上がった木々や石が、弾丸の雨となって降り注ぐ。悲鳴をあげたサトリの頭を太い木の枝が貫こうとしたとき、赤い炎が目の前を突き抜けた。
「だいじょうぶだよっ! 森もあなたたちも、もう傷つけさせたりしない!」
高い少女の声に、サトリとシルキは顔をあげた。
木々を伝い縦横無尽に飛び回るナオは、その手の炎を放ち、落ちてくるものを的確に狙い打っていた。
ケイは氷で、ハルトは剣で、三人はそれぞれ手分けして燃やし、氷漬けににし斬り裂いていく。
ようやく木々を大きく震わせた風が収まると、ケイは最後に落ちてきた小枝をはたき落とした。
ぽっかりと広範囲を穿たれた地面の上には、降ってきた大小さまざまな木々や岩が蓄積されている。しかしそこ以外には何も被害はない。力の相殺をやりきったその上に、三人はそれぞれ着地した。
「……終わったな」
ケイは空を振り仰ぐと、ぽつりとつぶやく。
「これで……森は守られた」
後はもう、残されたものに託すだけだ。
そう口にしたとき、その場に高い、かすかな声が響き渡った。
「……ありが……とう……」
最期の言葉は静かな余韻を残して安らかに、空に溶けるようにして消えていった。




