1-13 終わりゆくもの(編集中)
残る精霊たちはハルトを警戒してか、上空を漂ったまま降りて来ない。間合いが短い剣では届かない。
「それじゃケイ、あとよろしく」
言うと、ハルトは素早くその場から退いた。代わりにケイはすぐに掌を上に向かって掲げる。その手に淡い青色の光が凝縮されていき、冷たい風が彼を中心にして渦巻いた。手を押し出す動きと共にそれを放つと、浮遊する精霊たちの体が硬直した。まるで見えない糸に絡みつかれたかのように動きを止めたのだ。
「キィ……キィイイイ……!」
精霊たちは追い詰められた草食動物のようなか細い声をあげ、顔を苦悶に歪めている。彼らの身体は徐々に白く変色していき、地面に引きずられるようにして高度を落としていく。
白く見えるのは氷だった。薄暗い森の中ではとても目立つ。
どしん、という重い音と衝撃とともに、精霊たちの体は地面に沈んだ。凍った彼らはもがくことすらできずに唸るだけだったが、やがて顔まで凍結するとそれも聞こえなくなった。
残る精霊は一体だ。
ケイは少し歩いて足を止めて上を見上げる。幼い少年の姿をした精霊が、直立する姿勢でじっと宙に浮いていた。先ほどまでシルキを抱えていた個体だ。
精霊はケイの視線に気づくと、ふと弱々しい笑みを浮かべた。意味深なその顔を見て、ケイは眉をひそめる。
「あれが精霊なのか」
「子供じゃないか……」
「なんだ? 寒い……それに精霊たちが氷漬けに」
「あれがスピリストだと言うのか。なんてことだ……」
男たちの低い声が辺りによく響く。
集団から漏れる言葉の数々は、どれも驚愕と戸惑いが色濃く含まれている。同じ街に住んでいるはずなのに、精霊の姿を見たことがないかのような物言いだ。
「この森の精霊たちのリーダーはお前だな」
「…………」
ケイがそう言うと、精霊は黙ったまま高度を落としてきた。微笑を浮かべたままの精霊はケイを見ているようで、どこか違うところを見据えているようだった。突如として住処に現れた異能力者に仲間を次々と屠られ、今やただ一人きりになったと言うのに、彼は取り乱す様子は見せない。それどころかまるで果然とした表情だった。
ケイは冷気を纏った右手を精霊に向かって掲げる。言外に戦闘体制を示すが、精霊は両腕を下げて動かない。それを見て、ケイも右手を下げた。手首の精霊石の光が小さくなり、能力発動を解く。
「……やっぱりそうか。この森はもう」
そう言いかけて、ケイは言葉を止める。精霊の表情がひどく儚く、悲しげに見えたからだ。
精霊は何か言いたげに唇を震わせたが何も言うことはなかった。今一度ケイをじっと見つめ、言葉の続きを促しているかのようだ。
「やめろ……!」
その時、よく通る高い声があがった。シルキだ。大人たちの後ろに隠されるように押しやられていたが、集団の中でもがいている彼の姿が見え隠れしている。
ケイが反応するより早く、ナオは彼らの前に出る。ようやく人の壁をすり抜けてきたシルキは、待ち構えていた彼女を見て縋るように言った。
「どいてくれお願いだ。言わせない、言っちゃいけないんだ!」
涙声をあげながら、シルキは駆け出そうとする。ナオは容赦なく彼の腕を掴んでそれを阻んだ。
狂ったように暴れるシルキの手は、精霊に向けられたまま空を切る。
「だって約束したんだ! 俺たちがこの森を……」
「ーーこの森の命は、もうすぐ終わる」
ケイの無情な声が悲しいほどによく通って、シルキの言葉を遮った。
シルキは何も言えなかった。大きく見開かれた彼の瞳に映っていたのは、弱々しく俯くだけの精霊の姿だ。
口を噤んだままの精霊は、シルキの方を見向きもしない。
「う、嘘だ! そんなはずはない!」
代わりのようにあがったのは、叫び声に近い男の声だった。
シルキは弾かれたようにしてそちらを見る。声の主は討伐隊の先頭に立っていたサトリだった。
サトリの目にはシルキは映っていない。シルキと同じ絶望の色をしたその瞳で、彼もまた精霊を見つめている。
まるで縋りつくかのような目だった。しかし精霊はやはり彼を一瞥すらもしない。
「ーー精霊」
「…………」
「お前たちと、シルキたち町の子供。一体どういう関係だ?」
ケイの問いに、精霊はようやく口を開いた。
「僕たちと……遊んでくれた。友達です」
囁くように言うと、精霊は顔を上げる。その姿は今にも薄闇に溶けてしまいそうなほど弱々しかった。
「シルキたちは……僕らに会うために森へ探検に来たんだって。そんなこと何十年もなかったから驚いたよ。皆姿の違う僕たちを恐れず、遊ぼうって言ってくれた」
精霊は悲しげに笑う。
「……うれしかった。僕らにとって彼らは希望だったんだ」
それからシルキたちは大人の目を盗んで森に来て、精霊たちと一緒に遊んだ。同じ年頃の子供たちが、自然とそうやって集まるようにして。
精霊の言葉にじっと耳を傾け、その場の皆が静まり返っていた。
その中でひとり、ケイは眉をひそめて小さく呟く。
「希望……?」
「やめろっ! もうやめてくれ!」
シルキはナオを押しのけると、精霊に向かって駆け寄った。今度はナオはそれを遮らなかった。黙って彼の背中を目で追う。
ケイの横を通り過ぎようとしたとき、シルキはケイを思い切り睨みつけた。しかしケイもまた彼を止めなかった。
荒い呼吸に肩を弾ませながら、シルキは精霊の目の前に辿り着いた。精霊は彼を待っていたように、ゆっくりと高度を落とした。シルキと目線が揃うところまでくると、精霊はじっとシルキを見つめた。
「……なんで? なんでなんだよ……」
「ーーシルキ」
精霊は優しく微笑むと、小さな手でシルキの頬に触れた。
青みがかった半透明のその身体は、人間とは全く違うものだ。しかしシルキは迷うことなくその手に自分の手を重ねた。
「シルキ……ごめんね。ダメだった」
「何言ってんだよ! なんで……ダメって、一体何が起こってるんだ」
「本当だよ。スピリストの彼の言うとおり、この森はもうすぐ死んでしまうから。ほら」
その表情と同じ、優しいがどこか突き放したような口調だった。それだけ言うと精霊は上を向く。シルキは促されるまま視線を追った。三体の精霊たちがケイの冷気を纏ったままぐったりとうなだれ、動かなくなっている。
シルキの目の前にいる精霊と似た、シルキと同じくらいの子供の姿をした青い精霊たち。その小さな身体が拘束され今にも事切れそうなさまは痛々しいもので、シルキは息を呑んだ。
慰めるようにして、精霊は空いている方の手でシルキの頭を撫でた。そのまま頭上に手を掲げ、彼の身体が淡い光を帯びると同時に風が巻き起こる。その風が止んだ瞬間、拘束されていた精霊たちの体は跡形もなく消え失せた。
精霊に亡骸は残らない。
その存在がなかったことになって、今やこの森の精霊は一体を残すのみだ。
それを目の当たりにしても、シルキはまるで何かから逃れるようにして首を横に振る。
「……死ぬなんて嘘だろ。だってこの森はこんなに広くて大きいんだから。これからも何度だって遊びに来るし、オレが……オレが町を変えてみせるから!」
「この森の生き物たちはもうほとんどいない。それは死と同じことだ。僕ら精霊は君たちとは違う。君たちと違って、僕らはこの森の命を糧にしてしか生きられない」
シルキの頬を涙が伝う。小さな肩をしゃくりあげるシルキに、精霊は優しく笑いかけた。
「――でも、それをわかっていたのはお前だけだろう。だから子供たちをさらったんだな」
淡々とした冷たい声音で、ケイは二人に割って入った。刻限を告げるかのようなその声に、シルキは目を見開く。
精霊はシルキの頭をもう一度撫でると頷いた。
「そうだよ。これがきっと最後になる。だから」
精霊はシルキから離れるとふわりと浮き上がった。空気を切る音をあげて一回転し高度を上げると、地上には一筋の風が吹き抜けた。
辺りに渦巻いていた冷気が風に流されて弾け飛ぶ。精霊は空中でぴたりと動きを止め、ゆっくりと、そしてまっすぐにケイを見た。
「頼みがある。――僕らを今、殺してほしい」
その言葉が終わる前に、ケイは立ち尽くしていたシルキの腕を掴んだ。シルキが声をあげる間もなく彼の体を引き寄せると背後へと押しやる。
入れ替えるようにして、ハルトとナオはケイの横に飛び出した。ハルトは剣を構え、ナオも体勢を低くして身構える。
ケイの右手首の青い精霊石が眩く輝く。三人の戦闘体制が整ったと同時に、浮遊していた精霊の表情は消え失せて、まるで獣のような雄叫びをあげた。先ほどまでの優しげな顔や幼い風貌は一瞬にして消え去り、口は耳まで裂けそうなほどに大きく開かれている。
精霊がその細い腕を一閃すると、風の矛のように地面に叩きつけられる突風が巻き起こった。それと一緒に精霊自身も腕を振り上げ、ケイに向かって突進してきた。
ケイの右掌に冷気が凝縮する。一瞬にて冷気の壁ができ、精霊は勢いのまま弾き返される。
顔色ひとつ変えないケイの後ろで、シルキは恐怖に身を強張らせていた。
「なんだ……一体急にどうしたんだ……!」
「シルキくんっ」
ガタガタと震えていた彼の身体を、今度はナオが掴んだ。そのまま軽々と彼を抱えると、ナオは大きく跳躍して後方へ下がる。
サトリたち討伐隊は皆、シルキと同じように呆然としていた。そんな大人たちにシルキを押し付けると、ナオは目線を低くしてにこりと笑う。
「大丈夫だよ。ここにいて動かないで」
そのとき、精霊の突風が彼らにも襲いかかってきた。
風と一緒に折れた木々の枝葉が巻き上がり、さらに攻撃力を増して叩きつけられてくる。範囲が広く回避する暇もない。サトリはシルキを抱きしめると体制を低くして彼を庇った。
しかし牙を向けた風の矛が彼らに届くことはなかった。巨大な緋色と熱波が風を阻んで、飛んできたもの全てを撃ち落としたのだ。
「熱い! な、なんだ……?」
シルキはゆっくりと顔を上げる。
彼らを守ったのは、赤く燃え上がる炎の壁だった。ナオはシルキたちに背を向け、手首の石がひときわ眩く輝く左手を前に掲げている。
何もなかったところから突然現れた炎の壁は、ナオが手を下ろすと一瞬にして消えた。彼女の手にはちらちらと揺れ動く炎が纏われており、薄闇の中では嫌でも皆の視線を奪う。
ナオはシルキを振り返ると、笑顔で頷いた。
「大丈夫だよ。この人たちを連れてきたのも私だから、私が守るよ」
「オッケー!」
代わりに返事をしたのはハルトだった。⭐︎
ハルトは突風の襲来を器用に避けていく。小刻みに何度も叩きつけられる風の刃は、すでにこれまでの攻防によってなぎ倒された木々を粉砕し、裂けそうなくらい深く地面を穿つ。これまでとは比較にならないほどに、最後の精霊の力は強かった。
ハルトはにやりと笑うと剣を掲げた。




