5-19 揺れるゴンドラ
*
甘い香りで記憶を奪うついでに観覧車のスタッフの男性を操り、ハルトとリサはひとつのゴンドラに乗せてもらった。
二人向かい合わせに座って改めて顔を見ると、ハルトはやや苦笑を浮かべる。成り行きだったが、任務を途中でサボっている上に先ほどまで追っていたリサと一緒に観覧車に乗るなどとは思わなかった。
無意識に、ハルトは左耳に触れる。直後、勢いよく顔を上げた。驚くリサに、ハルトは手を上にして差し出す。
大切なものを取り返しておかなくては。
「ねぇリサ。オレのピアス返してくれない」
「え、あ……はい、ごめんなさい」
目を丸くしていたリサは、今度は素直に従った。銃を仕舞っていた腰のポーチをまさぐると、ハルトの手の上にピアスを乗せた。
耳につけるには大きな、金色のクロスのピアス。その真ん中には丸いオレンジの飾り石があしらわれており、窓から差し込む夕日のように美しい輝きを放つ。
ハルトは一度手を握る。堅くて冷たい感触に安堵すると、元あった左耳へとつけた。
無言の間にも、ゴンドラはゆっくりと上昇していく。
高く、高く。美しい夕焼けの景色を少しずつずらしながら。
「それ、綺麗ね。本当は盗るつもりはなかったんだけど、あまりにも綺麗だったから。ごめんなさい。今までアクセサリーとか服とか、欲しいものを欲しいって言えなかったから」
「……引き取られた家だから?」
リサは頷く。肩をいからせて、膝の上の拳を握った。
「引き取ってほしくなんかなかったわ。親が死んで、誰かもわからない遠い親戚っていう夫婦がいきなり現れて。あいつらの目的は男の子の弟だけ。家業の跡取りが欲しかったけど子供がいないからって、頭のいい弟に目を付けたのよ。あたしは不要だったの」
悲しいほど透き通る声音さえも乗せていく。ゴンドラの中から見える骨組みは、より複雑に交差している。
「大人なんて嫌いよ。都合の悪いときは力を振りかざすもの。都合のいいときだけ保護者面するの。本当はただ利用したいだけのくせに」
ハルトは黙って耳を傾ける。
風に煽られて、ゴンドラが少し左右に揺れた。
「自分に向けられる感情が理解できないほど子供にはなりきれなくて。機嫌を損ねたら怒鳴られて殴られるから、怒らせないように一生懸命空気を読んで、何も考えてないふりしてヘラヘラ笑っていたわ。従順で馬鹿な子供を演じてさえいれば支配欲が満たされたのかしらね、大人は何も言わなかった。今でも大きな声で何かを言われるのが苦手なの。思い出したくないのに、恐怖が身体に染み着いているみたい」
リサは俯く。その声は、涙が混じっていた。
「あたしが何かを言おうものなら、汚い言葉で罵られたわ。お前はいらない、出て行けって。育ててやったのに恩知らずの卑しい娘だって。そんなことを言われたら黙るしかなくて。だって、実際にあたしも弟も、大人がいなければ生きていけなかった。でも大人は卑怯だわ、弱い者にしか強く言えない卑怯者。そして、何よりこんな世界が大嫌いよ」
リサの拳の上に、透明な滴が落ちる。
涙を拭うと、リサはおもむろにポーチから黒い拳銃を取り出して膝に置いた。
拳銃に目を落とすリサの唇が、憎しみに大きく歪められた。
「……あの日。義父が部屋にやってきて、あたしに覆いかぶさってきたの。必死で泣き叫んで抵抗して、あいつが手に持ってたこのモデルガンだけ夢中で掴んで逃げてきた。そこからはずっと今まで逃げて、必要なものは盗って、生きてきたの」
ハルトは目を見開く。彼女が何をされそうになったのか、嫌でも理解できた。
リサは両手で拳銃を握りしめる。まるで義父の姿を重ねるように、強く、憎らしげに。
「なんであたしは子供なのかしら。なんであたしは女なのかしら。何度恨んだか分からない。あたしに一人で生きていくだけの力があれば、いつだって出ていけたのに。あたしが男だったら、身体が成長して自分を守れるくらいに力が強くなったら、殴り倒してでも抵抗できたのに。なんでこんなにも力の差があるの。頭ごなしに罵倒されても、もし言い返したら殴られるんじゃないかって思ったら、怖くてできなかった。悔しくて悔しくて、一人で泣くしかできなかったのよ」
リサはそこで言葉を切ると、拳銃から手を離して再び膝の上に置いた。
左手で右手の指先をつまむと、するりと手袋を引き抜く。
リサの右手首には、ハルトの左のそれと同じ金色の太い輪が密着している。その上に、ピンク色の精霊石が輝いていた。
「だから、力が欲しかった。今のあたしなら、生身の大人になんて負けない。あの子だっていつか必ず迎えに行って、あたしが守ってみせる。あたしは一人で生きていける。だからスピリストになったことに後悔なんて、これっぽっちもしていないわ」
言い切ると、リサは右手首を握って顔を上げる。
涙に濡れていても、力強い輝きを持つ漆黒の瞳。それを見て、ハルトは穏やかに微笑む。
「オレも後悔なんてしてないよ。オレにはやらなきゃいけないことがあるから」
「やらなきゃいけないこと?」
「そ。このピアスに誓ってね」
訝しむリサに、ハルトは自身の左耳を示してみせる。
そっと触れると、つるつるとした感触が指に伝わった。
「これね、妹の宝物なんだ。育った町を出るとき、お守りにって妹がくれた。妹が生まれたとき、これを握ってたんだって」
「生まれたときにって……そんなのありえないわよ」
「うん。たぶん親がそう言ってただけで、実際は妹が生まれた時にでも親がプレゼントしたんじゃないかな。今となってはオレも妹も分からないんだけど」
「分からない?」
「うん。だってオレの両親、もうずいぶん前に死んでるから」
淡々と言ってのけるハルトに、今度はリサが息を呑む。
ハルトはリサから視線を外すと、ゴンドラの窓の外を見やる。
もうかなり上まで登ってきている。あともう少しでまた、頂上へとたどり着くだろう。
高いところから見える夕焼けの景色は、とても綺麗だ。
「オレと妹は南の端の町で育った。オレたち以外の孤児も多くて、町の大人たちが親代わりをしてくれて育ててもらったから、オレと一緒にいる奴らとか、同世代はもうほとんど兄弟みたいな感じなんだ。けど、妹は体が弱くて満足に外出することもできない。原因は医者にだってわからなかった」
ハルトはゴンドラの窓に掌をつける。まるで目の前のものを求めても、見えない壁に阻まれているようで、思わず指に力を込めた。
ゴンドラの動きがわずかに変わる。斜め上から、真横へと進むように。頂上だ。
ハルトを追って、リサも窓の外へと目を向ける。
綺麗な橙色に染まる空が、いっぱいに見えていた。少しずつ輝き始めた都会の景色が煌びやかで、眩しい。
二人で小さな歓声をあげる。景色から目を逸らさずに、ハルトはそっと言った。
「この世界のどこかに、どんな病気も治してしまう大精霊がいるんだって。単なるおとぎ話かもしれないけど、オレは探しに行きたかった。会って、頼みたいんだ。妹を助けてって」
「そう……。会えるといいわね、その大精霊に」
「見つけるよ。いつか、必ず」
凛としたハルトの声音は、いつまでも響くようで。彼の力強い横顔を、リサはじっと見つめていた。
観覧車はゆっくりと回る。
二人を乗せたゴンドラは下降を始めると、少しずつ地上へと送り届けていく。
――この時間がもう少し続けばいいのに、と。
ほんの少し、そう思ったリサはハルトに気付かれないように、窓につけていた手をそっと握りしめていた。




