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1-10 信頼


「——始まった……!」


 凄まじい獣のような声を聞き取ると、ナオはその場で反射的に身構えた。

 ナオがいるのは森の入り口だ。ハルトに押し退けられたまま、彼女は森には入らずそこに留まっていた。

 遠くの方でいくつもの咆哮と衝撃音が響いていた。今から飛び込んで駆けつけようとしても間に合わないだろう。

 森の入り口は暗くぽっかりとしている。まだ太陽は沈んでいないはずなのに、森の中や周囲は薄暗い。まるで訪れるものを引きずり込むかのような不気味さがある。 


「ケイ……ハルト」


 ナオは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。今はただ、二人と攫われた子供たちの無事を祈るだけだ。

 二人が森に飛び込んでから三十分ほどしか経っていない。普通、精霊たちは人間と積極的に関わろうとしないため、精霊たちに遭遇するのはもう少し遅いとナオは考えていた。

 早く片が付くのに越したことはない。

 ナオはポケットに手を入れると、青色の携帯電話を取り出す。ナオは画面にそっと人差指を這わせると画面を叩く。任務の内容を指示するメールを開き、今一度確認した。


「私たちの任務はこの事件の調査。だけど……」


 小さな声で呟くと、ナオは目を伏せる。

 一呼吸ぶんの間を置いて、メールの文章の最後の文を読みあげた。


「町の人間の安全を第一に行動すること。実力的に可能な場合、もしくは時間的な猶予がなく危険であると判断した場合、精霊への攻撃を許可する」


 言い終わると、ナオは携帯電話のボタンを押した。画面が真っ暗になったことを確認してから元通りポケットに押し込んだ。

 

「……そう、安全のため」


 ナオは顔を上げた。森とその上空の怪しい気配を今一度感じ取ると、彼女は踵を返す。元来た道を引き返そうとしたところですぐに足を止めて立ち止まった。

 風の音と木々が揺れる音がやけに大きく響く。

 それらに混じって、いくつもの雑踏が森へ向かって近付いて来ていた。やがて太い声が混じり始めると、遠くの方でいくつもの影が蠢く。

 ナオは一度細長い息を吐き出した。あっという間に大きくなる影を、彼女はきっと睨みつける。


 間もなく押し寄せて来たのは武装した男性の集団だった。ナオに気づいたらしい、先頭の黒髪の男がいっそう鋭い眼光を放っている。彼は町長にサトリと呼ばれていた、自称精霊討伐隊のリーダー格の男だ。

 サトリはナオの目の前まで来ると足を止めた。彼が背後の男たちに手で合図して静止させると、二十人ほどの男たちの前に、ナオ一人が立ちはだかる形になった。

 サトリはナオを見下ろした。ナオはどちらかというと小柄な女の子だ。体格の良いサトリと比べるとより小さく見える。

 しかしナオは怯むことなく、じっと彼らを見ていた。

 彼女の視線はまっすぐで揺らがない。それを見て、サトリはさらに苛立ちをつのらせた様子だった。


「……シルキがいなくなった」


 その言葉に、ナオはぴくりと眉を跳ね上げた。


「もう我慢ならん。精霊は俺たちの手で片をつけてやる」


 公園で出会ったときと同じように、彼らは銘々に武器を持っている。ナオは首を横に振った。


「危ないです。町へ戻ってください」

「そんなことを言ってる場合か、シルキまで奴らにさらわれたんだ!」


 ナオにつかみかかるような勢いでサトリは吠えた。ナオは目をわずかに見開く。


「え……?」

「そうだ、さっき町長が涙ながらに我々にそう伝えてきた! 我が子や孫を想う親の気持ちが……子供のお前には分かるまい!」

「町長さんがそんなことを?」

「そんなことってなんだ!」 


 サトリの背後からいくつも怒号があがる。サトリは額に青筋を立てて震えていた。ナオはそんな彼らを一度全員見やる。町長の姿はそこにはない。


「…………」


 ナオは眉をひそめた。

 ケイたちが森に飛び込む前に、町長はすでに撒いていた。町の人間である彼が森の場所を知らないはずがないため、そのうち追いついて来ると思いナオは待ち構えていたのだ。ところがやって来たのは討伐隊だけだった。

 公園で会った時と同じように、町長が討伐隊を留めてくれるとは期待していなかったナオだったが、もう少し時間を稼いでくれるとは考えていた。しかしサトリの口ぶりではむしろ討伐隊を煽り送り込んで来たようで、違和感を感じたのだ。

 黙ったまま考え込むそぶりを見せるナオに、サトリは痺れを切らしたらしい。盛大に舌打ちをして捲し立てた。


「おい聞いてるのか! いいからそこをどけ!」

「どきません」


 ナオはぴしゃりと一蹴した。サトリの顔がもはや真っ赤になり、手に持った銃をナオに向けた。


「どけと言ってる! スピリスト……お前らは、お前らは自分の仕事と言っておきながら結局シルキを危険な目に遭わせやがって! やはりお前らなんかに頼るのは間違いだ」

「まだ任務の途中です。町へ戻ってください」

「いい加減にしろよ、このガキども!」


 集団からも口々に罵声が飛ぶ。


「何がスピリストだ、お前らは政府の戦力なんだろ! 何の役にも立ってねぇじゃねぇか!」

「そうだ、さっさと出ていけ!」

「俺たちを舐めるな! 精霊たちなんぞ敵じゃねぇ!」

「俺たちが精霊を倒すし子供たちを助ける! だから……」

「ダメです」


 ナオは食い気味に言い放つ。彼女も一歩も引かない。


「私の役目は皆さんを危険な目に遭わせないことです。絶対に森には入らせないよ」


 ナオが丸い目を吊り上げた。彼女は細い腕を掲げ、掌をサトリに向けて制止を示す。

 その手首にある赤い小さな飾り石が突如として淡く輝き始める。薄暗い中でそれは眩しく目立っていた。


「何だ……?」


 それだけ漏らすと、サトリは思わず口を噤んだ。小柄な少女に気圧されたのが悔しかったのか、みるみるうちに顔がこわばった。

 ナオはサトリに向けていた手を握りしめた。


「大丈夫です。シルキくんも……精霊たちも。私たちが探して助けます」

「なっ……精霊も!?」

「はい」


 狼狽えるサトリに、ナオは迷わず頷いてみせた。


「精霊たちは昔からずっとこの森にいた。でも今まで町には何もしてこなかったんですよね? 人とともに生きてきた……そうでしょ?」

「あ、ああ……」


 サトリは戸惑いながらも首肯する。

 ナオの服や髪が、風もないのに大きくはためいて、彼女の体の周りの空気が熱を帯びる。

 目に見えない何かが彼女の周りに渦巻いているようだ。


「精霊たちの声を聞いてあげて。きっと何か伝えたいんだと思うから」

「仕事……うわっ」


 ナオの背後、森の入り口から突風が吹いてくる。どんどん強まっていくそれに、サトリたち討伐隊は思わず顔を手で覆った。

 ナオは掲げていた腕を真横に薙ぐ。何かが弾けるような衝撃音がして、風が急に止む。


「何だ……風が消えた?」


 行き場を無くした木の葉がはらはらと上空から降ってくる。不自然に止んだ風に、討伐隊は狼狽えていた。


「……お前が何かしたのか?」


 ナオを見下ろしながら、サトリは震える声でそう言った。伸ばされた彼女の左腕には、さらに輝きを強めた飾り石がある。


「……スピリスト……?」

「私たちは政府の戦力だから、精霊と戦うことが仕事です。ううん、戦うしかできない」


 ナオはサトリの目をまっすぐ見て言った。静まり返ったその場には、彼女の高い声がよく響く。


「でも精霊たちにとっては戦力(わたしたち)が必要なときがあるんです。だからきっと呼ばれたの」


 ナオはにこりと笑う。鋭く吊り上げていた目元を緩ませて、穏やかに言った。


「大丈夫。あの二人がいるんだもん」


 確かな信頼をもってして紡いだその言葉は、サトリたちに反論を許さなかった。

 ナオは再び森の方へと目をやると、静寂に混じる声へと耳を傾けた。





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