5-10 ナオと黒服の女
「ふゅ?」
ナオはすんすんと鼻を鳴らす。甘く、蕩けそうな匂いは、まるで花畑に一歩ずつ近づいているかのようだ。
こんな都会の真ん中に、匂いの強い花が植えられた花壇でもあるのだろうか。
そんな間の抜けたことさえ考えてしまうほど、どこか魅惑的で、思考が滞るような香りだ。
ナオははっと我に返ると、掌に爪を突き刺す勢いで手を握る。香りの強い方を探り当てると、そちらに鋭い目を向けた。
視線の先に、すでに小さく見えた細身の女の姿があった。黒い帽子を目深にかぶり、黒い服を着た彼女の姿は逆光であまり見えなかったが、確かにナオと視線が絡み合った。
「誰!?」
甲高い声でナオは叫ぶ。
女は背を向けると、一目散に逃げ出した。
「待って!」
追って、ナオは強く地を蹴る。
彼女の両足首には炎の輪がアンクレットのように煌めき、その細い脚に纏わりつくかのようだ。
スピリストは発動時、魔力によって身体能力が上がるが、ナオのそれは非常に顕著だった。元々の俊足はさらに強化され、圧倒的な脚力を誇る。
「逃がさないっ」
きっと目を吊り上げて、ナオは女の後姿を見据える。
銃弾のように飛び出したナオを、ケイは顔をしかめながら見送っているだけだった。
「なんだ……体が動かない……」
絞り出すように言うと、ついには地面に跪く。体が言うことを聞かず、力が入らないのだ。
異様に眠い。瞼が落ちてきそうだ。
必死に顔をもたげ、ケイは視線を彷徨わせる。すると、ハルトやシュウまでもが同様に、その場で動けずにいることに気付く。
「ナオ……?」
狭まる視界の中で、ナオが大きく跳ねた。
人が多い。
人混みの中に突き進んでいく黒服の女から目を離さないようにしていたナオだったが、人にぶつかってしまい思うように進めない。人の多い場所に慣れていないのもあるが、次々と人が流れてきて、活路を見出せないのだ。
「ご、ごめんなさい! 人を追ってるの、どいてっ」
甲高い声を上げながら、必死で人をかき分ける。
埒があかない。ナオは歯噛みすると、一度後退して足に力を込めた。
隣にあった建物の壁を蹴り、空中で回転して跳躍する。上からの方が障害物が少ない。
大きな看板や屋根を身軽に伝い、ナオは器用に走り抜ける女を追い抜かすと、どうにか人を避けて彼女の前に着地する。
突如上から降ってきたナオの姿に、女が驚きの色を示したのが分かる。足を止めると、一歩後ずさった。
道行く人々が、派手に登場したナオを見てざわめき出した。
この場所で、炎を扱うわけにはいかない。そもそもまだ攻撃許可は出ていない。
熱を帯びた拳を強く握ると、ナオは女を鋭く見据えて言った。
「あなたは何者? 盗難事件のこと、何か知ってるの?」
「…………」
帽子に隠れ、女の表情はわからない。背はおそらくケイやハルトと同じくらいだろうか。
答えない女を油断なく睨みながら、ナオは彼女を観察していた。
右手には手首より少し上まで覆う手袋をしている。左手は素手だった。手首を隠しているならば、その下に精霊石を所持している可能性は十二分にある。
だらりと下げたままだった女の右手の指が小さく動く。それに気付いた時にはすでに、辺りは甘い香りに包まれていた。まるで香水のようにふわりとした良い香りだ。
少し噎せそうになったが、それだけだった。
「何この匂い。これはあなたの仕業なの?」
「……なぜなの?」
「ふえ?」
消え入りそうなほど小さな声が、女の唇から漏れる。
よく聞き取れなかったが、彼女の口元は悔しげに歪められていたように見えた。
聞き返そうとしたナオより早く、女は腰にあった小さなポーチに手を入れる。女は、取り出した黒い拳銃をナオに向けた。
ナオが目を見開く。同時に、女は躊躇なく引き金を引く。
眩い光が、暗い銃口から放たれた。
「きゃっ!」
ナオは反射的に飛び退ると、彼女が立っていた場所に高い音とともに何かが叩き込まれる。コンクリートが穿たれ、細い白煙を上げていた。
間髪入れず、さらに数回引き金が引かれる。ナオは都度後ろに跳ねてそれをかわした。
コンクリートを滑るようにして体勢を整える。女から目を離すまいと顔を上げたそのとき、女は銃を持っていない方の手を一閃した。
ナオは警戒を強める。
そのとき、足元に何か白いものが転がってきた。爪先に柔らかいものが当たる。
「ぬいぐるみ?」
意外なものに、ナオは一瞬目を奪われてしまう。直後、風に乗って甘い香りが流れたのを感じて顔を上げた。
「あっ……いない……!」
その一瞬の隙をつかれた。人混みに紛れたのか、女の姿は忽然と消え去っていた。
「……え」
――違う。
ナオは心中でそう呟く。
先ほどまで、突如現れたナオや怪しい女を遠巻きに見ていた人々が、急に何事もなかったかのように行き来しだしたのだ。ならば、まだ近くにいるはずだ。
「すみません、帽子を被った黒い服の女の人を追っています、通して!」
ナオは声を張り上げると、再び人混みをかき分けようと試みる。
蹴飛ばしてしまった白いぬいぐるみを反射的に拾い上げたところで、ナオは気付く。道を開けてもらうどころか、人がさらに増えているのだ。
先ほどのように上から追おうにも、着地する場所がないほどだ。何より、すでにナオは人混みに呑まれていた。
「すみません、どいて!」
「うるさいわね! 何なのよあんた!」
溺れそうになりながら必死で叫ぶナオに、横にいた女性が目を吊り上げた。
ナオはびくりと縮こまる。
「す、すみません! さっきまでここにいた黒い服の女の人を追ってて、それで……」
「はぁ? 何言ってんのよ。あんた空から急に降ってきたと思ったら、一人で騒いでいただけじゃない。頭大丈夫?」
「えっ……?」
女性が心底訝しげな表情をして言ったことに、ナオは言葉を失った。
女性だけでなく、周囲の人々がじろりとナオに目を向ける。
「ど、どういうこと……?」
「知らないわよ。あんたこそどいてちょうだい、邪魔よ」
「きゃっ」
固まるナオを突き飛ばすと、女性は足早に立ち去っていく。
たくさんの人々が次々と行き交い、ナオは呆然と立ち尽くしたまま人の流れを見ていた。
数度人にぶつかって謝罪したところでようやく我に返ると、ナオは仕方なく、元来た方へと歩き始めた。




