5-5 左耳のピアス
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水面にたゆたう木の葉のように、身体がふわふわと漂っているような心地がする。
手をのばそうにも、身体は言うことを聞かない。
どこか遠くで、名前を呼ばれたような気がした。瞼がぴくりと痙攣するが、重くて持ち上げることができない。
――夢を見ているのだろうか。
露わになった肌に温もりを感じる。まるで何かに優しく包み込まれているようだ。
そのとき、焦りを滲ませた声が聞こえてきた。だんだん近づいてくるように、はっきりと。
「……ハルト……ハルト……」
次いで、身体が揺り動かされていることに気付く。
ハルトはようやく意識の海を浮上すると、ゆっくりと目を開けた。
「――ハルトっ!? ハルト、しっかりして……っ」
ぼやける視界に映ったのは、上から覗き込んできているナオの顔だった。
今にも泣きそうな表情で、彼女はハルトの二の腕を掴んでゆさぶり、時に顔を叩いて覚醒を促している。
「……ナオ……?」
「ハルト、よかった! 気が付いたんだねっ」
ハルトの小さな声を聞いて、ナオがほっと眦を下げる。溢れ出そうになる涙を拭うと、彼女はハルトの手を両手で握りしめた。
ナオと一緒に、天井らしき模様が見える。どうやら屋内で仰向けに寝ている姿勢らしい。ゆっくりと半身を起こそうとすると、ナオが腕を引っ張ってくれた。
「ハルト、だいじょうぶか?」
遅れて、ナオの一歩後ろにいたケイが身を乗り出してきた。
問われて逡巡する。だが、ハルトは自分がなぜここにいるのか全くわからないのだ。
身体を支えるべく右手をつくと、柔らかいものにめり込んだ。見ると、ベッドのマットレスだ。真っ白なシーツの上に、丁寧に布団まで被った状態で寝かされていたらしい。
ハルトは自身の掌をじっと見つめて、独り言のように呟く。
「あれ? オレ、どうしてたんだっけ……」
茫然とした声に、ナオががばりと顔を上げて詰め寄ってきた。
「それは私たちが聞きたいよ! いつの間にかはぐれちゃうし、人が倒れてるって騒ぎがあって見てみたらキミなんだもん! ねぇ何があったの? ほんとにだいじょうぶ!?」
「倒れてた……オレが……?」
ハルトは掌で額を覆う。頭の奥の方で何かが響いたような心地がして、気分が優れない。
「……うえ、吐きそう」
「ハルト、まだ休んでないとだめだよ」
俯くハルトの背中を、ナオがさすってくれた。
「ありがとう。ところでここどこ?」
「ドリームランドの救護室だ。スタッフの人に連れてきてもらった」
「そっか……」
答えたのはケイだった。ハルトは深呼吸をして気分を落ち着かせる。
頭が痛い上に、身体はふわふわと漂う感じがする。軽い熱中症のようなものだろうか。
朧げな記憶を懸命にすくい上げる。
確か、ケイとナオを二人きりにさせて、気まぐれに園を散策していたはずだ。そこから先の記憶がぷっつりと途切れていた。
「……思い、出せない」
手をのばしても指の間をすり抜けるようで、もどかしい。ハルトは歯噛みする。
そんなハルトを見て、ケイとナオは心配そうな顔を見合わせた。
かける言葉が見つからず、ナオは口をもごもごとさせながら、ぼうっとしたハルトの横顔を見つめる。
ふと、ナオは何かに気付いたように声を上げると、ベッドに手をついてハルトに顔を近づけた。
「ハルト? いつものピアスはどうしたの?」
「えっ……?」
ナオの言葉に、ハルトは上擦った声をあげる。
心臓が早鐘を打ち、全身を内側からうるさく叩く。短い呼吸を繰り返して、あっという間に口がからからに乾いてくる。
目を限界まで左に向けても、自身の左耳は見えない。震える指先で、おそるおそる耳に触れると、ぬるくて柔らかい耳たぶの感触が伝わった。
全身の血液が冷え切るような心地がした。ひゅっと喉を鳴らすと、ハルトは目を見開いた。
「……ない! ど、どうしてっ」
「ハルト!? きゃあっ」
布団をはねのけると、近くにいたナオの腕に叩きつけられる。そのままハルトに突き飛ばされ、ナオは床を転がった。
必死な形相で飛び出そうとするハルトを、ケイが制止する。
「ちょ、おい! 待てよどうしたっ」
「離せケイ! くそ、どこに行ったんだっ」
「落ちつけよ! お前らしくもないっ」
背後から羽交い締めにして、暴れるハルトを押さえ込む。ケイの大きな声に、ハルトはようやく我に返った。
何もない耳たぶごと掴むように、ハルトは左手で頭を抱えて必死で記憶を辿る。
いつも左耳に身につけていた、金色のクロスのピアス。大きくて時々引っかけたり当たったりするが、とても大切なものだ。
落としたのだろうか。
いや、そうしないように、あのピアスのキャッチはネジ式になっており、ちょっとやそっとで取れるものではない。
それにハルトには左耳に触れる癖がある。ケイやナオを見送った時には確かにあった。そして、耳には痛みも傷もない。
「まさか……誰かが取ったのか?」
「ハルトっ?」
ハルトはケイの手をはねのけると、部屋の中を見渡す。隅に置いてあった机の上に自分の荷物を見つけると、脇目も振らず駆け寄った。
荷物を確認すると、持っていた全ての現金がなくなっていた。
「くそっ……やっぱりか」
間違いない、物取りの仕業だ。耳に付けていたピアスまで持ち去るとは、徹底した盗みようである。
基本的に必要最低限しか現金を持ち歩かないので、被害はそう大きくはない。だが、それはどうでもいい。
ハルトは手を堅く握りしめる。
俯く彼の背後から、ナオがおずおずと顔を出した。
「ハルト、どうしたの? ピアスだけじゃなくて荷物もないの?」
「……ナオ、ごめん。身体打ったろ」
彼女を突き飛ばしてしまったことを今更ながら思い出すと、ハルトは呆然としながらも謝罪する。
ナオはぷるぷると首を振った。
「私は大丈夫だから、それより!」
「ごめんな。オレちょっと探してくる」
ナオの肩に手をおくと、ハルトは彼女の腋をすり抜けて扉に向かう。
明らかに冷静さを欠いている。ナオは慌てて後を追うと彼の手首を掴んだ。
「ハルト! だめだよ、まだ休んでないとっ」
「いいから、離せナオ!」
「だめ! 探すってどこに行くつもりなのっ! キミをっ、燃やしたって、私行かせないからねっ」
物騒なことを言うナオと力比べを試みる。だが、まだ本調子じゃないハルトの身体は思うように動かず、彼女を振り切ることができない。
明るい茶色の目で、ハルトはナオを睨みつける。だが、ナオも譲らずに目角を立てる。彼女の手にさらに力が込められたかと思うと、本当に熱を帯びてくる。
その時、彼らの目の前の扉が開くと、スタッフの女性が立っていた。彼女は目を丸くして二人を見る。
「ど、どうされました? お気づきになられたんですね、大丈夫ですか?」
戸惑いながらもハルトを気遣う女性に、ハルトは唇を噛んで頷く。助けてもらったのならば、礼は述べるべきだ。
「ああ、ありがとうございました。でもごめんなさい、そこを通してくれないかな」
「だめって言ってるでしょ! 燃やすよっ」
ナオの甲高い声が代わりに飛んでくる。ハルトはナオをまた睨みつけると、手首の精霊石が光る。
まさにナオに剣を突きつけようとしたそのとき、ケイのポケットの中で携帯電話が音楽を奏で、メールの受信を告げた。
ハルトはぎくりと肩をこわばらせると、振り返ってケイの手元を見やる。
――何もこんな時に。ハルトは歯噛みした。
ケイがメールを確認する。
「任務だ……」
「……悪い。ケイ、ナオ、任務任せていい? あれだけは、どうしても取り戻さないと……」
ハルトが譫言のように言う。
ナオはそんな彼の顔を切なげに見つめていた。
ケイは彼らを見ないふりをしてか、携帯電話から目を離そうとしない。そしてその内容を、小さな声で読み上げた。
表題は、To Missyonn。
「『カリス』の町の連続盗難事件の、調査任務……」
「え?」
ハルトは瞠目する。
「ぴゅえっ!?」
彼の手首を掴んだままのナオを引きずる勢いで、未だベッドの横に立ち尽くしていたケイのもとへと舞い戻る。
「ケイ、それって……」
「ああ。最近この町では盗難事件が多発しているらしいぜ。もしかしたら……」
詰め寄るハルトに、ケイは頷いてみせる。
ハルトは携帯電話の画面をじっと見つめる。
ケイから携帯電話を受け取ると、メールの本文を何度も見返す。何度も画面をなぞって、噛み砕くように。
記憶は霞を掴むように朧げだ。
だが、このタイミングでこの任務。
何の手がかりもない現状を鑑みれば、任務を遂行することが一番の近道になるのかもしれない。
求めるものへと、たどり着くための手がかりになるのならば。
「オレは、オレのピアスを取り戻したい。悪いけど二人とも、オレは今回それを最優先にしたいんだ……」
喉の奥から絞り出すように言うと、ハルトはケイとナオに向かって頭を下げる。
ケイとナオは戸惑いの表情を見合わせたが、弱々しく頷いてみせた。




