チョコレート・チョコレート
――――その一粒のチョコレートに、どれだけの想いがこめられているかなんて、あなたは知らない。
二月十四日はバレンタイン。バレンタインは二月十四日。そんなのはもう常識で、だからその時期が近くなると、みんなどことなくそわそわしている気がする。
恋人や、それとも気になっている人に贈るのか、友達に贈るのか、はたまた義理か。いずれにせよ、みな楽しげにチョコを選んでいた。
お菓子メーカーが作ったものじゃなくて、手作りするひとたちだって、きっと大勢いるだろう。わたしだって、去年まではその中のひとりだった。
――今年は、買ったチョコレートにした。そしてもう、来年からはわたしは誰にもチョコレートをあげることはないだろう。
デパートのレジに並びながら、わたしは思う。
今年のバレンタインは、わたしにとって区切りのようなものだ。自身の恋心を、綺麗さっぱり消し去るための儀式。
毎年わたしがチョコレートを贈るのは、父親と、そしてお隣の和兄だけだ。ちっちゃい頃から追いかけてきた和兄に、チョコレートを渡すようになったのはいつからだろう。ああもう、遠い昔だ。
和兄に、恋人がいるかいないかなんて、関係なかった。バレンタインだけが、わたしの気持ちを伝えられる唯一のチャンスだった。毎年、わたしは和兄に振られた。振られても振られても諦めないわたしは、大概諦めが悪い。和兄も、さぞうっとうしかったことだろう。だけど、それも今年で終わるから、今年までは我慢して受け取ってほしい。
その話を聞いたのは、バレンタインのちょうど一週間前で。
テレビを見ていた母親が、こちらを見ようともせず、漏らしたものだった。
「そういえば、和樹君、結婚するんですって」
リビングには、わたしと、兄と、母親がいた。兄と和兄は同い年で親友だった。兄が、母に尋ねた。
「誰と?」
「和樹君がずっと付き合ってた彼女よ。見たことあるでしょう? 何回か、和樹君の家にも遊びに来てたじゃない。仲いいくせに、知らなかったの?」
「……ああ、あの小柄な子?」
「そうそう、小さくてかわいい――」
母の言葉を全部は聞いていられなかった。走って、リビングから逃げて、部屋に籠った。
――――和兄が、結婚する。和兄が、結婚する?
ああ、どうして。
『んーお前のそれは単なる憧れだろ。まあ来年も気持ちが変わらなきゃ、またバレンタインの時に言いに来い』
言ったのは、和兄だ。まともに相手にされていないことはわかっていたけれど、その言葉だけが唯一のよりどころだったのに。今年だって、そのための準備をしていたのに。
どうして今、その事実を知るのだろう。
……バレンタインなんか、本当は大嫌いだ。永遠にやってこなければいいと、心のどこかで思っている。だって永遠に、わたしはわたしの求めている返事を手にすることは出来なくて。
振られてばかりなんて、辛すぎる。ねえ和兄、わたしはいったいあなたに何回振られたと思っているの?
「虚しいなぁ……」
呟きながら、同時にもうこれで終わるのだと思った。流石に、結婚した相手に渡そうとは思わない。わたしの心だってもう、擦り切れている。
だんだんと、涙が乾いてきた。
諦めよう。だってもう、無理だ。これ以上は辛すぎる。
毎年手作りしていたけれど、それももうやめよう。ちょっと高級なチョコレートを買って、それを渡して、さよならしよう。
そして、バレンタインデーを待って、いよいよ当日になった。
わたしは和兄の家の玄関の前でひたすら和兄を待っていた。不審者みたいだけど、こうでもしないと和兄は捕まらない。彼女と一緒に帰ってきたらどうしよう、とちょっと考えたけれど、最後くらい、直接渡したかった。
日が沈みかけた頃、和兄が帰ってきた。早い帰宅なのか、いつも通りなのか、そうでないのか、わたしにはわからない。今のわたしが知っていることなんて、ほんのわずかだ。
和兄はわたしが待っていることに気付いたのか、片手を上げて、よぉと言った。
「久しぶりだな。元気してたか?」
「久しぶり。元気、だったよ。まあまあ」
「……元気ないな。大丈夫か? てか今日はどうした? ああバレンタインのチョコくれるのか、今年も?」
「うん。でも、今年で最後ね」
「えっ?」
何故、驚く。
「もう来年からはあげないから」
「……他に好きなやつが出来たのか?」
和兄の声が震えていたような気がするのは、気のせいだろう。
和兄の顔をなるべく見ないようにしながら、手元の袋を押しつけた。わざと明るい声を出す。
「だって、結婚するんでしょう? 流石にもう、無理でしょ」
「俺に彼女いたときはくれてたじゃないか」
「うん、でももう、無理だから。疲れちゃったから。わたしが。今までうっとうしくてごめんなさい。じゃあね」
足早に立ち去る。後ろから和兄が呼びとめる声が聞こえるけれど、無視だ無視。……追ってきては、くれないし。
隣同士だから、家なんてすぐそこで。玄関にカギをかけて、そのままそこにしゃがみこむ。
手作りなんて、渡せなかった。だって想いがこもりすぎてしまう。行き場のない想いが呪いのように閉じ込められてしまう。わたしの恋心は、もう綺麗な色をしていなくて、とっくの昔に歪み果て、どす黒い色になってしまった。
醜くて、汚くて、見ていられない。
捨てるなら、今だ。
チョコレート、チョコレート。
――――その一粒のチョコレートに、どれだけの想いがこめられているかなんて、やっぱりあなたは、知らないのだ。




