迷子の子猫ちゃん
「ヴィルトゥオーゾを知っているか」
灰色の空を映した窓を背にして、教授はそう言った。
私は首をかしげてしばらく考える。
「知らないと思います」
答えてしまってから思いついて、
「あ、待ってください。確か、昔のピアニストにそんな人がいたような?」
私の答えに教授は苦笑した。
「人の名前ではないよ。超絶技巧の演奏者を似た名前で呼ぶことはあるがね。本当に思い当たることはないのか?」
「すみません、勉強不足で」
私は恥ずかしくなった。
「それ、みんなが知っているようなことなんですか?」
教授は首を横に振った。
「いいや。知られてはいないし、知る価値もないことだ。ただ、私の部屋のドアを叩く者はその言葉を聞きかじってやって来る者が多いというだけの話だ。私の専門は知っているだろう?」
そう言われて私はため息をつきたくなった。目上の人の前で失礼だろうから、かろうじて抑える。
それでも答えは表情に出てしまっていたらしい。
「まさか、本当に知らないのか」
メガネの奥の目がまん丸くなる。
「美学だよ。私の専門は美学だ」
「はあ」
どんな学問なんだかわからない。そもそもここは、何科の教授室なんだ。
教授の方がため息をついた。
「いったい君は、どうして私を訪ねてこようと思ったんだ」
「申し訳ありません」
私はちぢこまった。
「建物が広すぎて、迷ってしまったんです。どこを歩いているか分からなくなって困っていたら、この部屋のドアに教授のお名前が書いてあって……。それで、道を教えていただきたいと」
恥ずかしすぎる。でも、この建物と来たらまるで迷宮で、歩けば歩くほど自分がどこにいるのかわからなくなって、本当に途方に暮れていたのだ。
教授は呆れて私を見ている。私は申し訳なさに、黙って自分の膝を見つめるばかりである。
コンコン、と軽快なノックの音がした。
「こんにちは、教授」
ドアが開いて、女子学生が入ってきた。同い年くらいに見えるけれど、堂々としているから上級生なのかもしれない。やわらかそうな金の髪を大きなリボンで束ねて、ふわふわっとしたワンピースを纏っている。それは瞳と同じ、やわらかな空色だった。
まるで絵本に出てくる妖精のような彼女に、つい見とれてしまう。
「セコンダ。何か用か」
教授は素っ気なく言った。
「いいえ。暇だから、教授の顔を見に来ただけ。……ねえ、見ない子ね。席は埋まっているはずだけど、まさか、十三番目なの?」
「まさか」
教授はぎごちなく笑った。
「ただの迷子だ。セコンダ、暇ならこの子をビルの外まで連れて行ってやってくれ。ああ、待ちなさい、その前に」
そう言って教授は、椅子から立ち上がる。その様子は足の長い蜘蛛が急に動き出したみたいで、私は真面目な顔を保つのに苦労した。
「お茶でも飲んでいきなさい。本当に久しぶりだし、もう二度とないことかもしれないからね。何の意図もなくこの部屋のドアをくぐる学生に出会うのは。ああ、君、名前は?」
私は自分の名前を言った。
「覚えにくそう。変な名前ね」
セコンダと呼ばれた女の子が肩をすくめる。
「ガッティーナでいいわ。そう呼びましょうよ。迷子なんでしょ」
その方が覚えにくそうとか、迷子とどう関係があるのかとか、いろいろ言いたいことはあったが、私はこの部屋の闖入者である。それに初対面の人にいきなりツッコむのもどうかと思う。初対面の人にいきなりあだ名をつけようとするのもどうかと思うが、とりあえずはおとなしくしておこうと思った。
教授が低く笑った。
「悪くはないな。セコンダ、そこの棚に焼き菓子が入っている。出してくれたまえ。ではガッティーナ、どうぞ」
私の前に紅茶の入ったカップが置かれる。よくわからないけど、この講座のノリはこうなのか。だったらとりあえず、ありがたくいただこう。
「すみません、いただきます」
「遠慮はいらない。少し我々に付き合ってくれ。本当に……こんな時間は久々なのでね」
教授のやせた顔が窓の方を向く。外は相変わらず曇り空だ。
私はカップに口をつける。紅茶は濃くて、好みの香りだった。
さんざん迷って、ようやく行き着いた知らない教授の部屋。
意外に居心地が良くて、悪くないなんて思っている。
妖精のような女学生と、アシナガグモのような教授。そんな取り合わせも物語めいていて、とてもおかしい。
「どうしたの、ニヤニヤして」
見とがめられた。
「いえ。……あの、お茶とお菓子がおいしくて」
「あら、気が合いそうね。ここは、お茶だけはおいしいのよ」
その後、私がここに入り浸るようになったのは、別にお茶とお菓子がおいしかったからだけではない。
セコンダさんの微笑が優しかったのも、きっと理由のひとつなのだろう。




