婚約者は斜め上方向に頑張る
「まあ! 可愛い猫ちゃん。おいで」
貴族の子女が通う王立学院。そこに併設された教会の中庭で、トリシャは一人静かに読書していた。
ちょうど木陰に位置する長椅子は、トリシャが入学してからの三年間、読書に最適な場所としてずっとお気に入りである。
ここに出入りする生徒は殆どおらず、時折後ろの柱廊をシスターが通り掛かる程度。人付き合いがそれほど得意ではないトリシャにとって、とても心安らぐ休憩スペースだった。
そこへやって来た、真ん丸な猫。
子猫と呼ぶには少し大きくて、足が短くて、ミルクティーのような色をした毛がふさふさしていて、何となくもちもちしたシルエットの。
とても可愛い猫だ。トリシャは潔癖と思われがちな貴族の娘でありながら、実はもふもふとした獣に目がなかった。
「猫ちゃん……はっ……」
ついつい高い声で呼びかけていると、ちょっとふてぶてしい顔つきの猫がトリシャの足元に近寄る。
手を伸ばせば確実に触れる距離。トリシャは瞳を輝かせ、そして頬も紅潮させ、慌ただしく本に栞を挟んだ。
「失礼しますね……!」
滑らかな背中にそっと手のひらを乗せると、至福の感触が伝わる。思った以上にふわふわだ。そして温かい。歓喜に打ち震えるトリシャは自分の口元を覆いながら、何度も優しく背中を撫でていく。
「可愛い、可愛い……! わたくし、猫ちゃんに触ったのなんて初めて……!」
そう、トリシャはもふもふが好きなわりに直接触ったことはなかった。
実家の周りに野生の猫を全く見かけなかったのと、そもそも母が猫嫌いだからという理由で、トリシャは実物を間近で見る機会に恵まれなかった。
ゆえに、彼女は画集を眺めることしか出来なかった。ちなみにそのもふもふ画集は、トリシャの半年分のお小遣いをはたいて一流の画家に描いてもらったものである。
「ああ可愛い、顎が気持ちいいのですか? ゴロゴロしてます、はあ、可愛い」
伯爵家の娘として、普段はそれなりに格式高い振る舞いを心がけているトリシャだが、この時ばかりは著しく語彙力が低下していた。
可愛い可愛いと遠慮がちに、しかし満遍なく猫の毛並みを撫でまくる。
しかしそんな幸せな時間が永久に続くはずもなし、夢中で猫と戯れていたトリシャは午後の授業を辛うじて思い出した。
「あ、いけない……もうお昼休みが終わってしまう……そんな……猫ちゃん……いいえ! 駄目よトリシャ、おサボりは! 今期のテストも五位以内に入って、ルキウスさまに頑張ったねと褒めてもらうんですから!」
怠ける自分を叱咤しつつ、両手はさわさわと猫を撫でつつ。
そこからしばらく名残惜しい気持ちで猫を愛でたトリシャは、始業のチャイムを機に長椅子から立ち上がる。後ろ髪を引かれる思いで振り返れば、猫もじっとトリシャを見送っていた。
(猫ちゃんが体を伸ばして、私を……!)
トリシャは何度も何度も猫を振り返り、最後には小さく手を振って、誘惑を断ち切らんとばかりに駆け出したのだった。
◇
まるで今生の別れよろしく立ち去るトリシャの背中を、姿が見えなくなるまで見送った猫。
しばし硬直した後、丸っこい猫はごろんと芝生に寝転がり、じたばたと短い足で空を蹴る。
「──ほらほら悶えてないで、早く戻ったらどうです? ルキウス様」
暴れる猫に語りかけたのは、騎士服をまとった青年だった。中庭の茂みから出てきた彼はちょっと頬を引きつらせながら、呆れた様子で肩をすくめる。
騎士の青年に気付いた猫はピタッと動きを止めると、のそのそと起き上がり──その姿を一瞬で美しい青年へと変貌させてしまった。
猫の毛並みと同じミルクティー色の髪を軽く搔き上げた彼、公爵家の嫡男ルキウスは、それまでの澄まし顔を真っ赤に染めて長椅子に崩れ落ちる。
「か、可愛すぎて死ぬかと思ったァ……ッいやもう死んだか!?」
「大丈夫、生命力に満ち満ちてますよ」
「トリシャがあんなに喜んでくれるとは! 私の努力は無駄じゃなかったんだな、ロジェ! 猫になれる魔法、論文にして提出しようか!」
「あー……ええと、どうぞご自由に。ここの学院を首席で卒業した人がこんなことしてるって知れたら結構驚かれると思いますよ、悪い意味で」
──ルキウスが魔法によって自らの姿を猫に変えることになったきっかけは、何と今から二年前に遡る。
この下らない遊びを語るのに二年も必要なのかと身構える者もいるだろうが、実際はごく単純な話である。
それはまだルキウスがこの学院に在籍していたとき、秋頃に開かれる狩猟大会で起きた事件だった。
ルキウスは昔から頭を使うことが得意な一方で、体を動かすのが大の苦手であった。運動音痴というほどでもないのだが、武器を扱った動きに関してはてんで駄目なのだ。
つまり弓を射って獲物を仕留めるなんて芸当を強いられる狩猟大会は、彼にとって苦痛以外の何物でもない。安全性の観点から攻撃魔法は使用禁止なので、どうせ今年も何も取れないのだろうなと諦めていると。
『ルキウスさま、頑張ってください!』
その年、入学して初めて狩猟大会なるものを観戦することになったトリシャは、憧れの婚約者がまさか毎年獲物を取れない残念な男であることなど当然知らなかった。
可愛い激励と可愛い刺繍入りのハンカチまで渡してくれた可愛いトリシャを前に、ルキウスは顔面蒼白で頷くしかない。
『あの、もしもキツネがいたら、み、見せていただきたいです!』
トリシャは大きな猪やら鷹は要求せず、狩猟対象ではないキツネが見たいと言った。大会で生け捕りにした小さなキツネやウサギを、恋人に見せる男はそう少なくない。トリシャもその話を聞いていたからこそ、勇気を出しておねだりをしてくれたようだった。
しかし悲しいかな、予想通り結果は無惨なものだった。
婚約者に手土産ひとつ持ち帰れなかったルキウスは、己のあまりの不甲斐なさに気を失い、森の奥で倒れていたところを医務室に緊急搬送された。
目覚めと共に浮かんだのは、トリシャの真っ青な顔だった。
『大丈夫ですか、ルキウスさま……! わ、わたくし……っ』
(キツネも取れない。婚約者も笑顔にできない。情けなさすぎる)
失意の底まで十分に顔面を擦り付けたルキウスはそこで、何とか自分の力でトリシャの好きなもふもふを見せてあげようと決めた。
しかしルキウスは少し頑固なところがあった。
己がそれほど努力もせずに習得した魔法を使い、野生の獣を捕まえたとしても意味が無い。公爵家の財力で愛玩動物を購入するのなんてもってのほか。
そう、努力して勝ち得たものでなければ嫌だと、ルキウスはそこから少々ズレた闘志を燃やすことになる。
護衛騎士のロジェからしてみれば「いや猫か犬か一匹ぐらいさっさと買ってやれ」と言いたいところだろうが、ルキウスは止まらなかった。
そして何がどうなったのか、二年かけて編み出したものが「猫になれる魔法」だった。何でお前が猫になるんだと混乱を極めるロジェに、残念な天才は言う。
『よくよく考えたら野生の獣をトリシャに近付けるのは危ないから私が猫になって安心安全のもふもふタイムを提供することにした』
怖い。どの辺りが安心安全なのだろうと絶句するロジェを置いて、ルキウス(猫)は嬉々として婚約者の足元へ駆け寄った次第である。
「しかも聞いたか、トリシャが……私に褒められたいがためにテストを頑張ると……可愛いの権化……これからはご褒美にもふもふタイムも添えてやらねば、いや別にいつでももふもふしてくれて構わないんだが」
「…………え、トリシャ様に正体明かすおつもりで?」
「当然だろうが。トリシャの内なる気持ちを盗み聞きするのは本意ではない。今日が最初で最後だ」
「変人が殊勝なこと言ってる」
「さあ帰るぞ、本命のキツネになれる魔法もそろそろ完成が近いからな」
「えっまだあるんですか!?」
大股に中庭から出ていくルキウスの背中を、ロジェは苦笑混じりに追いかけたのだった。
後日、中庭にいた猫がルキウスだったと知らされたトリシャは、若干気後れしつつも誘惑にあっさり負け、今日も幸せそうな顔で婚約者をもふっている。




