side莉々奈3
「ふふふ、ワンちゃん。すっかり元気になったね」
森の中を自由に駆け回る白い子犬。
一番心配だった後ろ足は二日もしないうちに腫れが引き元気いっぱいに駆け回るようになったのだ。
実際の所、子犬の内臓はあちこち傷つき、視力もほぼ失われていた状態だった。
しかしながら、瀕死の重傷すらも回復させてしまう薬の材料となる輝きの実の百パーセント果汁を飲んだのだ。効果は推して知るべしということだ。
「良かった。これでもうおうちに帰れるね」
莉々奈の言葉に、子犬は不思議そうに首を傾げた。
「もう怖い人たちは居ないから、森へ帰らなきゃ。きっとママが心配してるよ」
大き目だけれど、きっと母親がいるだろう。そう思って莉々奈は言ったのだが、子犬は悲しげにくんくんと鼻を鳴らした。
「人間の言葉とか分からないよね。うーん、果汁あげたから懐いちゃったのかな」
困った莉々奈は子犬を抱き上げた。
大き目のテディベアくらいの大きさだが、莉々奈が持ち上げられる程度の体重ではある。
そのまま持ち上げて目線を合わせると、ふかふかの太い白い足がぶらんぶらんと揺れている。
子犬の真っ黒でつぶらな瞳と、莉々奈のくっきりとした二重に縁取られた黒い瞳の視線がしっかりと絡んだ。
「どうしよう。帰る所が無いのなら、私と一緒に行ってみる?」
「わふ!」
子犬のふさふさとした尻尾が勢いよく左右に揺れる。
今朝たまたま莉々奈が目撃したのだが、地面でこれをすると小さな穴が掘れるのだ。
勢いよく振られた尻尾、そしてきらきらとした黒い瞳を見ていると、不思議と白い子犬が了承していることが伝わってきて、嬉しくなった莉々奈は子犬の体をぎゅうと抱きしめた。
「そっか。じゃあワンちゃんのお名前決めなくっちゃね」
そう言葉にした時、莉々奈の体と子犬の体が淡い光に包まれ、お互いの体からいくつもの光の筋が伸びた。
二つの光の筋は複雑に絡まり合い、莉々奈が見覚えのある形をとった。
「これって……水引?お祝儀袋のだよね」
複雑に絡んだ光の糸は、莉々奈の世界でよく目にするものだった。
「この形は簡単に解けなくって、末永く続くようにって意味なんだっけ」
思いがけない所で見た元の世界の縁起結び。不思議な現象は、子犬と自分を結び付けているものだと気付くと、なんだか嬉しい気持ちでいっぱいになってくる。
そんな莉々奈の頭の中に少し高めの男の子の声が響いてきた。
(りりな、ぼくのなまえは、わん!)
「!!!」
思わず、子犬を抱きしめてキョロキョロと周りを警戒する莉々奈に、子犬は赤い舌を出してハッハッと嬉しそうに尻尾を振り始めた。
(ぼくのなまえは、わんでしょ?りりな!)
「えっ、もしかして……ワンちゃん?」
ハッハッと赤い舌を出した子犬の尻尾はぶんぶんと勢いよく振られている。
(ぼくいがいに、だれがいるの?りりながだっこしてる、わんだよ!)
「や、ワンちゃんっていうのは、名前じゃなくって」
赤い舌がしゅるん、と仕舞われる。
先ほどまでぶんぶんと勢いよく振られていた尻尾は、悲しげにしおれている。
心なしかなんだかふかふかの毛もしぼんでしまっている気がする。
(ぼく、まちがえた?りりながくれた、なまえ)
しゅん、としてしまった子犬を抱き上げ、莉々奈は慌てて慰める。
「だ、大丈夫!!間違ってないよ!?ワンちゃんはワンちゃんだからね!!間違ってはいない!!」
そう、犬はワンちゃんであって間違ってはいない。ただ、個人名ではないのだ。
そう続けようとしたが、莉々奈の言葉を聞いた子犬の尻尾がふりふりと振られ、また勢いよく……今度は風を起こすのではないかという位、元気よく振られた。赤い舌もちろりと出てきて、ハッハッと嬉しそうだ。
(うん!!ぼくは、わん!!りりな、いっしょにいよう!!!)
「ふぁああ、かわいいいい、もういいよ!!ワンちゃんでオッケーです!!!」
思わず幼馴染のような反応をしてしまった莉々奈は子犬改めワンをぎゅうううっと抱きしめた。
二十二年も一緒にいて、数年間はほぼ毎日必ず顔を合わせていたのだ。話し方だってお互い移るというものだ。
「近所のおばちゃんの飼い猫の名前”ネーコ”だったし。三匹いたけど、全部”ネーコ”だったし。呼ぶ時全員歩いてきて大変そうだったけど、こっちは一匹だし……問題ないっか!ワンちゃんが気に入ってるなら問題ないね!!」
(ぼく、りりなのくれたなまえ、すっごくうれしい!!りりな、だいすき!!)
ワンは莉々奈の顔に鼻先を近づけて、ぺろぺろと顔を舐め始めた。
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「あの野蛮なヒト族ども。消し炭にしてやろうかと思うたぞ」
「あのような者たちにも、加護を等しく与えてやらねばならないのは、本当に悔しいですわ」
焔のような髪を揺らめかし、烈火の如く怒りを露わにする女性と、珍しく賛同する怜悧な美貌の女性だが、口を尖らせ頬を膨らませて怒っているので美しいというよりは可愛くも見える。
「我が主の根が届く場所に住まうものに等しく加護を。それが世の理だろう?それに、愛し子は結界に守られて無事だっただろう。何をそんなに怒る必要がある?」
「それは分かっておりますが……それでも好き嫌いくらい許して欲しいですわ!」
「我も好かぬヒト族くらいおるわ」
怒りを露わにする女性陣二人に、呆れた様子の男性。
「大地の。常日頃から思っておるが、お前にはハートは無いのか。ハートは」
「そうですわ!!愛し子様が害されようとしたのですわよ!?」
「しかし、我らが守り遠ざけたのだから問題はないだろう。それより問題は……」
男性は腕を組み、すやすやと眠る莉々奈とかたわらに寄り添う白い犬……ワンと名付けられた魔物を見下ろす。
ワンは眠ってはおらず、まっすぐに男性を見上げている。
その瞳には畏れや恐怖の感情は全くなく、ただ見上げているだけだ。
「魔の者は嫌いですわ」
「しかし、愛し子殿は随分と気に入っておられる様子だぞ?」
男性に言われ、流れる水のような髪を持つ女性は再び頬をぷっくりと膨らませ、口を尖らせてしまった。
やれやれ、といった表情で焔のような女性が腕を組んでワンを見つめる。
「この魔物は確か……フェンリルと言ったか。北方の台地に住まう、魔王の眷属であったか」
「成長すれば、我らと同等の力を振るうことが可能だろうな」
話題の中心のワンはというと、呑気にあくびをしてから、こてんと首をかしげた。
(ぼくはワン。だいすきな、りりなといっしょにいる)
その思念を感じ取った焔の女性の相好が崩れた。
「良いではないか。こやつはもう魔王の眷属ではない。愛し子の眷属となったのだから」
莉々奈にぴったりと寄り添うワンの前に焔の女性はしゃがみ込み、白いふわふわの毛に覆われた頭に手を乗せた。
「なるほど……幼子ゆえに、精霊の地へ迷い込み……命からがら逃げだした所を村にたどり着いたのか……。そなたも運がないな」
焔の女性は苦笑いを零し、ふわふわの毛並をそっと撫でた。
「我らが眷属が失礼をした……とはいえ、精霊が魔の者を嫌うのは当然のことでもあるから罰することなどできぬ。許せ」
ワンは何も答えず、ただ白い毛を撫でるたおやかな手を受け入れているだけだ。気持ちよさそうに目が細くなる。
「我らは、主を差し置いて愛し子の前に姿を現すことはできぬ。我らが主が目覚められるまで、そなたに愛し子を守護してもらおう」
焔の女性は瞼を閉じた。その体からまるで焔のような色の光が揺らめき立つ。
「えええっ!焔の!?魔なる者に祝福を与えるのですか!?」
「ええい、うるさいぞ泉の。この犬っころよりキャンキャンと吠えよるわ」
男性は面白そうにその様子を見守るのみだった。
焔の女性から揺らめき立つ光はゆっくりと流れ、白い子犬へと収束していく。
白い子犬は別段苦しそうな様子もなく、むしろリラックスしている様子で尻尾を左右にゆるく振っていた。
「さあ、ワンよ。焔の精霊王である我の力をお主に分け与える。お主が望めば、焔の眷属である我が子らが力を貸すだろう。……もう、焔がお前を傷つけることはない。焔は、お主の味方じゃ」
外見には全く変化は感じられなかったが、男性が感心しきりの様子で頷いた。
「魔の者の割に、許容量が多いな。愛し子の眷属となった影響なのか」
「愛し子が契約を結べばもっと器が大きくなるであろうな。楽しみなものじゃ」
「……わたくしはご遠慮致しますわ!魔なる者たちは大嫌いですもの」
青い髪の女性は拗ねたようにぷいっと横を向き、その体は一瞬にして水へと転じて地面へと飲み込まれていった。
「泉のは相変わらず気難しいの」
「そうか?先代よりは随分と精霊らしいと思うが」
焔の女性は口をつぐみ、ワンを抱き上げた。
「……あやつの話はしてやるな。特に、泉のの前ではな」
「そういうものか?」
焔の女性は深いため息を吐き、自分より遥かに長い時間を生きている大地の精霊王を呆れたように見た。
「そういうものじゃ。ほんに、お主にはハートが無いのかのう」
なあ、ワンよ。そう言いながら焔の女性はふかふかの白い毛に覆われた腹に顔を押し付けた。
「なるほどなるほど。愛し子がこれをする意味がよく分かった」
「どういう……ぶっ……!!!」
怪訝そうにしている大地の精霊王に、焔の精霊王はワンの腹をぐいっと押し付けた。
大地の精霊王は微動だにせず、焔の精霊王は怪訝そうにワンを離した。
ワンは特に気にせず、はっはっと赤い舌を出して尻尾を左右にゆるく振っている。
白いもふもふから解放された大地の精霊王は、少し赤い顔をしている。
「ふむ……。良いものだな。こう、ふかふかの毛から太陽の香りがする」
「だろう」
これを知らぬとは、だいぶ損をしていると焔の精霊王は鼻高々だが、昼間に莉々奈がやっていたことの真似である。愛し子がやらねば、そもそも魔物などの腹に誇り高き自分の顔を押し付けようなどとは思うはずがないのだ。
「そしてな、愛し子がやっていたのだが……」
むにゅ。
ワンの頬が横にびよんと伸びる。かと思えばそっと戻される。
ワンはといえば、さほど気にした様子もなくされるがままである。
「ほほう」
大地の精霊王がいつもと変わらず無表情で腕を組みながら近づいてくる。
「ほほう……」
むにゅ。
相変わらずの無表情ではあるが、少し顔が赤いようにも思える。
そしてその夜……莉々奈の眷属となったワンには、焔の精霊王の祝福と、大地の精霊王の祝福とが与えられたのだった。
もふもふ。




