side莉々奈1
様子がおかしくないほうのヒロインです。
大雨の日だった。
視界の悪い中、会社からアパートに帰る途中のこと。
車が頭からぷかりと浮かび、やがて全体が浮かび……流されていくのを感じた。
やってしまった。
小さな川だから、水位が上がって氾濫していたのだろう。後の祭りとはよく言ったものだ。
車はゆっくり回り……ドアは開かない。
これ、絶対死んだ。
そんなシンプルな感想しか出てこなかった。
大好きな家族、一人暮らしを始めた時に隣の部屋を借りてくれた幼馴染の顔。
短いなりに色々あったこれまでが一瞬で頭の中をよぎるが、もうどうしようもない。
ごめんね、と。全てを諦めた時だった。
運転席のシートに座っていたはずの莉々奈の体に何かがシュルリと巻き付き、車内からどこか別の空間に引っ張り出した。
ふわっと宙に放り出されてから続く落下していく不快な感覚と、真っ暗な闇が続く目の前に莉々奈はぎゅっと目を瞑る。
「もう大丈夫。でも、少し眠いの。ごめんね」
幼い女の子の声が直接脳に届き、はっと開いた瞳には、黒い闇一色が広がるのみ。
そのまま再びぐいっと引っ張られ、浮遊感と落下する感覚に気持ち悪くなり、莉々奈の意識は遠ざかっていった。
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小鳥の声がする。
田舎のおじいちゃんちにいつ来たっけ……そんな呑気なことを一瞬考えたものの、今までの出来事がよぎり、瞼を開ける。
恐ろしい程に澄み渡った青空が視界いっぱいに飛び込んできて、黒曜石のような黒い瞳は眩しさにぎゅっと細くなる。
田舎のおじいちゃんちよりも清涼な空気を感じ、深く息を吸う。
徐々に明るさに慣れ、くっきりと線が引かれたような二重の瞳が、きょろきょろと辺りを見渡す。
ほら、頭上を小鳥が飛んでる。ピチュピチュと楽しそうに囀りながら、空高く……。
そこまで堪能してから、莉々奈はガバッと体を起こした。
「えっ?私死ん……??えっ??天国??」
困惑しつつも立ち上がり、最終的に水没しつつあった車内に居た自身の体をチェックしてみる。
幸いなことに、クローバーの群生地のような場所に横たわっていたようで、綺麗な黒い絹糸のような髪には、ほんの少し草が絡んでいるだけだ。服も濡れていないし、特にどこも痛みを感じたりなどはしない。
草原特有の香りと、土の匂い。頬を撫でる風は夢とは思えなかったが、死を覚悟したあの瞬間から、こんな平和な所にいるのがどうにも信じられず、試しに頬をつねってみた所、確かに痛い。
日本人には馴染み深い、見渡すとどこかに山が見える光景とは全然違い、見渡す限り地平線が見えている。
よくよく見ると、楽しげに囀りながら空高く舞っていた小鳥たちは、上半身が人である。莉々奈がよくやるファンタジーゲームに出てくるハーピーというモンスターに良く似ている。
「えーっと……。これは、あれかな?柊奈の大好きな異世界転生……違うね、生きてるから異世界転移って言うんだっけ」
お互いが母親の腹に居る時からの付き合いの幼馴染が、この事態に直面しようものなら間違いなく「ひょおおお!!!まずはスキルを確認しよう!!」とか騒ぐであろうことが容易く想像でき、こんな事態であるのに小さく笑みを零してしまう。
「スキル、とか。そういうのは特に無いみたいかな。いつも通りの私ね」
腕を振ってみても炎だとか全然出ないし。よくあるアニメのようにステータスが見えたりとかもしない。
もしかして、実はあの時死んでしまっていて。本当は転生して見た目が変わっているかとも思ったが、少なくとも髪の毛はなんの面白味もないストレートの黒髪である。
ついでに言うと、いつも通り胸もぺったんこなので、特に生まれ変わったり等はしていないと思われる。
「確かに、女の子の声だったと思うんだけど」
土砂に飲み込まれた際に聞こえた幼い声。
それが恐らくはこの状況のキーパーソンとなるのだろうけど。
残念なことに周りに女の子はいない。というか、遥か頭上で囀っていたハーピーですら、もう居ない。
見知らぬ広い草原に一人きり。
ザアアアアッと風が草原を走り、莉々奈の髪を舞わせる。
途端に夢見心地が醒めて、現実がひしひしと迫ってくる。
今は日が高くて安全かもしれないが、日が落ちてきたらどうなるか分からない。
危険な野生動物……ハーピーだって居たのだ。動物どころではなくて、危険な魔物とかも居るかもしれない。
「よし。早めに人が居る所に行こう」
着のみ着のまま。持ち物は一切なく手ぶらである。
なんでこんな状況になったのか、しかも五体満足に生きているのも不思議だったけれど、新しい出発に何も持っていないこの状況が、なんだかいっそ清々しくも思えた。
見渡す限りの地平線ではあるが、はるか彼方に大樹があるのが見える。
これだけ何もない所を歩くのだから、目標が欲しい所。
あれだけ目立つ木なのだから、その下には町があるはず……。
人がいて、且つ迫害されていない世界だといいな。そんなことを考えながら莉々奈は歩き始めた。
理不尽な目にあっても、メソメソ泣き続けない。
今出来うる最善を尽くし、出来るまで頑張る。
だって、私はお姉ちゃんだし。
それが、黒須莉々奈という人であった。
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結論から言うと、日が傾いても木の根元にはたどり着かなかった。
木は莉々奈が思っているより遥かに大きいらしく、歩けど歩けど近づいている実感すら得られなかったのだ。
だんだんと日が暮れていくが、莉々奈はさほど困ってはいなかった。
それというのも、日中歩いていた時から思っていたのだが……。
この世界に来てからというもの、ものすごーーーく運が良いのだ。
喉が渇いたなと思えば、清涼な泉にばったりと行き当たる。
水は澄んでいて、程よい木陰もあるが、周りがぬかるんでいて危ないということもない。
綺麗そうに見えるけど、本当に飲んで大丈夫かなと訝しむと、都合よく野生動物がやってきて、ごくごくと喉を潤し始める始末。
さらに言えば、お腹が空いたなーと口に出せば、リンゴのような果実が鈴なりになった木に行きあたる。しかも、何故か木には布袋までかけてあったのだ。
誰かが、このリンゴを食べたという事かと思い、恐る恐る一口かじると、リンゴはとても甘かった。特に腹を下したりもせず、むしろ糖分がとれたためか元気になった。
誰かが掛けたままの布袋を有り難く頂戴する。
中を覗き込むと、皮で作られた水筒が入っていたので、それも有り難く頂戴し、布袋にはリンゴが入る限りと、その後再び行き当たった泉の水を入れた水筒が入っている。
ここまで運が良いと、信仰心皆無の莉々奈でも何かしら神がかり的なものを感じる。
幸い、暑くも寒くもない、のどかな天気なので夜に何か起きなければ問題なさそうに思えたし、この運の良さだと大丈夫かも……と楽天的に思えてきた。
しかしながら、だだっぴろい草原で身ひとつで寝るのは怖いし、心許ない。
日があるうちに少し大きな木の根元で野営をすることを決意したのだった。
「たき火とかしたほうがいいのかな……。でも、火種とか持ってないし」
火種とか言ってみたものの、現代人の莉々奈が使ったことのある道具はライターとチャッカマン、辛うじてマッチを数回といった所だ。
火種になりそうな物といえば、枯れ木かなと思い、一応、道中で集めた枯れ木を山にしてみたもののこれでは当然ながら火は付かない。
まあ、気分だけでもと思い、枯れ木の山の前に座って綺麗な夕日をぼんやりと眺めていると、カサリと物音がした。
莉々奈の顔が緊張に強張り、すっと立ち上がる。
太めの棒も道中で入手していたので、そちらを手にとり、どこから物音がするかと耳を澄ませる。
カサカサ……。
音の発生源は、なんと目の前の枯れ木の小さな山の中だった。
少しの安堵を感じ、莉々奈がしゃがみ込んで見ると、小さな赤色のトカゲが犯人だったようだ。
「なんだ、トカゲさんか。びっくりしたー……」
へたりと座り、力なく笑う莉々奈をのそのそと枯れ木の山から出てきたトカゲはじっと見つめている。
「トカゲさん、美人さんだね。赤いツヤツヤのお肌に、真っ黒のつぶらな瞳。美人さんだ。あ、イケメンだったかな?」
莉々奈の言葉に、トカゲはおもむろに口をパカっと開いた。
開いて、そのままボッと火を吹いたのだ。
「!?」
思わず腰を浮かせた莉々奈に我関せずといった、爬虫類特有の無表情さで、莉々奈に背を向けたトカゲは、再度火を吹いて枯れ木の山に火をつけ……焚火にしてくれた。
「え、うそ……。こんなことって」
あまりにも出来すぎた出来事に、うすら寒くなってくる莉々奈。
過ぎた幸運は、人を不安にさせるものなのだ。
しかし、そんなのお構いなしに、トカゲ……この世界ではサラマンダーと呼ばれる生き物はのそのそとたき火へと入り、心地よさそうに瞳を細めた。
その愛らしい様子に毒気を抜かれた莉々奈は再び座り、じっとトカゲを見つめた。
「……ふふっ、もしかして、炎のベッドが欲しかったのかな」
炎に入り、苦しむどころか満足そうな様子を見るに、この子はそういう生き物なのだろうと莉々奈は理解した。
ちょうど、焚火は欲しかったし、なにより一人は寂しかったのだ。
物を言わないトカゲでも、危害を加えてこないのなら、一緒にいてくれたほうが嬉しいに決まっている。
木の根を枕代わりして横になり、幸せそうなサラマンダーを見ているうちに、一日中歩き疲れた莉々奈の瞼はゆっくりと落ちていったのだった。
「我らが主の愛し子。主が目覚められるまで、我が見守ってやろうぞ」
眠りに落ちる前、聞こえた声は大人の女性のような気もしたが、それが夢なのか現実なのか。一日中歩き疲れた莉々奈にはもう分からなかった。
「焔の。愛し子様はまだ契約を交わしていないのよ。やりすぎではない?」
「泉の。そなたもそこらにポコポコと霊泉を出しおってからに。人のことは言えぬぞ」
サラマンダーの姿が、炎のようにゆらりと揺らぎ、現れたのは妖艶な女性だった。ふわふわとウェーブを描く白髪の先端は、瞳と同じ燃えるような紅蓮色をしている。
その姿と対照的に、流れるように美しい青のグラデーションの髪を纏った、儚げな美女。口を尖らせている為か、恐ろしい程の美貌なのにどこか可愛らしさが残る。
「だって、ヒト族は渇きすぎると死んでしまうのよ。焔のこそ、サラマンダーのふりをして姿を現した上に、しかも褒めて頂いて……!!ずるすぎますわ!!!」
「愛し子が気づかなければ何の問題もない。お主も何かに化ければ良かろう?」
右手で虫でも払うような仕草をし、面倒くさそうに答える女に、泉のと呼ばれた女は頬を膨らます。
「そんな器用なことが出来るのは貴女くらいですわ!分かってて言う……意地悪ですわ!!!」
泉の女性の相手をする気はもう無い様子で、焔の女性は暗がりに声を掛けた。
「大地の。そなたも貴重な輝きの実を鈴なりにしおって」
「焔の。仕方ないだろう。ヒト族は食べねばすぐに死んでしまうのだよ。せっかく食べるのならば、最高の物を与えたいしな」
暗がりから現れたのは、短い黒髪の無骨な男性。服装も女性2人に対してだいぶ質素でまるで農民のよう。人が良さが顔に滲み出ているが、とても只人とは思えない程に姿形が整っている。
騒がしくしているものの、その会話は深い眠りに落ちている莉々奈の耳に届くことはない。
莉々奈を囲う強力な結界は魔物や獣からその存在を隠すと同時に、莉々奈の疲労回復の眠りを妨げることのないように音も遮断してあるからだ。
莉々奈の用意した枯れ木の山なんて、ほんの十数分程で消えてしまうはずだが、不思議な炎で燃えるたき火は翌朝まで絶えることなく。
そんなこととは露知らず、莉々奈は深く、深く眠り続けるのであった。
あれ?こっちも様子がおかしいような気がしますね。




