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side莉々奈4

 すっかり元気になったワンと一緒に、莉々奈はあてもなく森の中を彷徨っていた。

 安全そうな森の中を選んで歩き続けて、もう三日になる。

 

 輝きの実のおかげで、空腹を感じることはなかったが……それでも心理的な疲労は積み重なっていく。


 目的にしていた人里に紛れ込む作戦は大失敗だった。


 だが、この世界の標準的な服装と、言葉が通じることが分かったことは大きな収穫だ。そして何よりも……ワンという大切な友が増えたことは心強かった。



 ワンは子犬らしく元気いっぱい、のびのびとしており、たまに突拍子もないことをして莉々奈を驚かせることもあるが、一人ではなくなったのは莉々奈に大きな喜びと安堵をもたらした。


 ただ、一つ残念だったのは、自身の黒髪黒目という特徴はあまり歓迎される容姿ではなさそうだということだ。せめて髪の毛だけでも隠すにしろ、今足りないものは確実に大きな布だった。



 もう追っ手の気配は感じないし、もう大丈夫だとは思うのだけれど……それでも莉々奈は用心をして森の中を歩いていた。

 なんとなく大樹に近いほうが安全な気がしたのだ。


 この森は莉々奈を歓迎している気がする。不思議な感覚だけれど、そんな気がした。


 不思議なことに、歩きにくいはずの地面はなだらかで歩きやすく感じるし、手入れは一切されていないはずの山道なのに木が生えていなくて歩きやすい箇所があるのだ。

 

 なんだか、木々が莉々奈を避けてくれているような……そんな不思議な感じだ。


 前方を楽しげにぴょんぴょん飛び跳ねるように歩き回っていたワンが、鼻先を一方向に向けてくんくんと匂いを嗅いだ後……突然走り出す。


「ワン!?どうしたの?」


 慌てて追いかけると、莉々奈の心にワンの思念が流れ込んできた。


(ヒト族きらい!でも、きっとね、りりなのほしい布があるよ!!!)


 初めて出会った時より、話し方がしっかりしてきて意思の疎通が取りやすくなったと思う。

 ただのフェンリルという魔物から、精霊王二人もの加護を受けた為なのだが、そんなことは知らない莉々奈は、犬だから成長速度が早いんだなあと呑気に感心していた。


「え!?ヒトがいるの?危ないよ!!ワン、待って……!!」


 つい先日、人間にひどい目にあわされたばかりのワンだ。心配する莉々奈の静止を振り切って、ワンは森を抜けた。

 後を追って莉々奈も森を抜け……眩しい日差しに一瞬立ちすくむも、ワンを思い出して慌てて駆け出した。



◆◆◆


 森のほとりに、小さなログハウスがあった。

 屋根は緑色に塗られており、こじんまりとはしているものの温かみを感じる家だ。


 家の外観というものは不思議なもので、家主の内面を映し出していると莉々奈は常々思っていた。


 だから、こんな優しい人が住んでいそうな家の物干し竿から……とんでもないことに、衣類を盗んできたワンに頭を抱えていた。


「ワン……元の場所に返してきなさい!これは泥棒なのよ?めっ!!!」

(どろぼう???だって、りりな。この布欲しいって思ってた)


 泥棒の概念がそもそも無かったらしいワンは、口から大きな布をぶら下げて、不思議そうに首をコテンと横に倒した。


「確かに布が欲しいと思っていたけど、こんな人様の洗濯物を盗むようなそんな真似は……」


 バレないようにこっそり戻そう。

 今、他の人に会うのはリスクが高い気がする。

 

 そう思って、莉々奈はこっそりと物干し竿へと近づく。

 そーっと、そーっと……。

 抜き足差し足忍び足……そっと近づく莉々奈の後ろで、美しい蝶を見つけたワンの瞳がキラキラと輝く。先ほどは人の物を取ったから主に叱られたのだ。野生の……それもこんなに綺麗なものならきっと喜んでくれるはずだと、子犬は考えた。


(りりな、きれいな蝶がいる!とってあげるね!!)

(だ、だめ!今は静かに……)


 大はりきりで大ジャンプしたワンに気づいた蝶はひらりと攻撃をかわし……置いてあったブリキのバケツに盛大に頭から突っ込み……派手な音を立てて転がったのであった。


「ひえええ……ワン、大丈夫??」


 慌ててワンを持ち上げ、バケツを取ってやろうとした莉々奈に、背後から声がかけられた。


「あらまあ。かわいいお嬢さんだこと」


 莉々奈が振り返ると、白髪のほうが多くなったブラウンの髪をひとつにまとめた、初老の痩せた女性が目を丸くしていた。


「あらあら、そっちの子犬ちゃんは大丈夫なのかしら?」


 バケツをかぶったままのワンを見て、くすくすと笑う女性。


「すっ、すいません!うちの子が、いたずらをしてしまって」

「あらあ、お洋服も引っ張ってしまったのね?やんちゃだこと」


 先日の村での出来事を思い出し、一瞬身を固くした莉々奈だったが、女性は相変わらず優しい笑みを浮かべていた。


 確かに女性は莉々奈の全身を見た。


 しかし、そのの服装と容姿には特に何も言わずに近寄り、ワンのバケツを取ってやる女性を、莉々奈は信じられない思いで見ていた。


「お嬢さんは、世界樹様のお客様かしら?」

「えっ」

「私はね、世界樹様の近くに住みすぎたせいかしら。少しだけ、世界樹様の気持ちが分かるのよ」


 女性は、莉々奈が出てきた森のさらに奥にそびえたつ巨木を愛おしそうに見上げた。

 世界樹……と莉々奈は小さく呟き、女性と同じように巨木を見上げた。


「世界樹様は、貴女が近くにいてウキウキしてるみたい。私も、なんだかウキウキするもの」


 女性は、シワだらけの手を口元に持ってゆき、うふふと嬉しそうに笑った。


「よかったら、そちらの子犬ちゃんと一緒にお昼にご招待してもいいかしら」

「えっ!いいんですか!」


 普段の莉々奈なら間違いなく断っていただろう。

 しかし、人間らしい食事をもうずっと取っていない彼女にはこの上なく魅力的な申し出だった。



◆◆◆



「私はリリアンというのよ」

「わあ……私は莉々奈と申します。ちょっと似ていますね」


 ちょっと手伝ってもらえるかしら?と、誘われたキッチンで卵を割りながら莉々奈は答えた。

 この女性には不思議となんでも話してしまいそうになる。

 自分の祖母よりは遥かに若くて元気だけれど、大好きだったおばあちゃんを連想してしまうからだろう。


「あら、東風のお名前なのね。もしかして、本当の名かしら?」

「本当の名?もちろん、そうですけど」

「知らないのね。世界樹様のお客様は、本当の名を明かしてはいけないのよ」


 この世界には魔法が存在し、強大な力を持つ者は本当の名を使って相手を縛ってしまうことができるのだと、リリアンは教えてくれた。


「東にある、ヴァルナ帝国というところでは、国民全員の名前を帝王が縛っているのよ」

「怖いですね」

「怖いわねえ」


 話をしながら、莉々奈が割った卵に手際よく野菜とベーコンを入れて生地へと流し込んでいく。

 それらを石窯へと並べ、リリアンはニッコリと笑った。


「ちょうど昨日ね、息子が来てたから食材がたくさんあるのよ。パンも残ってたと思うわ。あまり上等じゃないけれど」

「全然大丈夫です。本当に……お返しにもならないかもしれませんけど」


 言いながら、莉々奈は布袋からいくつかリンゴを取り出した。


「私、こんなものしか持っていなくって」

「これは……」


 リリアナは息を呑み、首を振ってひとつだけを受け取り、あとは莉々奈の布袋へと押し戻した。


「ありがとう。一つだけ受け取るわ。あなたは、東風の名前だから、もう一つ名前があるわね?」


 先ほど言われた、本当の名前を知ると縛られるという話を思い出した莉々奈は思わず黙ってしまう。


「ふふ、大丈夫よ。私はただの年寄りだし、そんな大層な力なんて持っていないわ。なにより、世界樹様に誓って悪用したりなんてしないわ」


 確かに、これから悪用しようと思っているのならば、事前にあのお話をしたりはしないだろう。


黒須(くろす)莉々奈(りりな)です」

「そう……本当に東風の名前なのね。不思議な響き」


 何度か口の中で反芻して、リリアナは顔を上げた。

 髪と同じ穏やかなブラウンの瞳が、莉々奈の黒い瞳を射止めた。


「リリーナ・クロス。これからは、そう名乗ってはいかがかしら?」

「リリーナ・クロス……ふふっ」


 初めて会ったのに、真剣に心配してくれるリリアナさん。

 私が危ない時には必ず近くに駆け寄ってくるワンは熱心に卵の殻をつぶして遊んでいる……。ああ、すごく散らかっているし、あとで叱らないと。そう思いながらも莉々奈は頷いた。


「わかりました。今日から私は、リリーナですね」

「私はリリアナだし、なんだか似た感じになっちゃってごめんねえ」

「姉妹みたいじゃないですか?」


 莉々奈の言葉にリリアナは目を丸くし、年相応に皺の入った顔をくしゃくしゃにして笑った。


「お上手ねえ!そこは母娘でしょうに」




◆◆◆



 すやすやとベッドで眠る莉々奈を見て、リリアナは幸せそうな笑みを浮かべた。

 ベッドサイドではワンが伏せて目を閉じてはいるが、眠ってはおらず主を守っているのが見てとれる。


「偉いわねえ。ワンちゃんは小さいのに、ちゃあんとリリーナちゃんを守らないといけないって分かっているのねえ」


 リリアナがしゃがみ、ワンのふわふわの頭を撫でる。

 いいこ、いいこと呟いて撫でる手は優しく、普段は眠る必要のない魔物であるワンの黒いつぶらな瞳がうっとりと細められた。


「あなたのご主人様を見ていると、娘たちのことを思い出すのよ。あんな所に置いてきたくなかったのにね……」


 ワンは黙って撫でられている。


「私の娘はね、二人とも綺麗な紺色の髪をしているのよ。リリーナちゃんも綺麗な黒髪でしょう。だからね、こうしていると娘が眠っているみたい。また一緒に暮らしているみたいに思えるのよ。そんなこと無いって分かっていても、なんだか浮かれてしまうのよ」


 リリアナの、髪の毛と同じ優しい茶色の瞳から、ぽろりと涙が一粒零れ落ちた。

 ワンは後ろ足で立ち上がり、前足をリリアナの胸元に付いて、大嫌いなはずのヒト族の顔をぺろりと舐めて、涙を拭きとった。


 莉々奈以外とは思念で話すことはできないけれど、この涙を流す優しいヒト族を慰めたいと思ったのだ。


「あら、ワンちゃんは優しいのねえ」


 ぽろり、ぽろりと涙が零れていく顔を、ワンは都度ぺろりと舐めた。だんだんくすぐったくなり、リリアナは笑い出してしまう。それを見たワンもうれしそうにふわふわの尻尾を左右に振るのだった。


◇◇◇


 翌朝、莉々奈はリリアナに、とある提案をされる。


「行く場所が見つかるまで、この家で私と一緒に暮らさない?水を運ぶのも一苦労だし、一緒に薪を運んでくれたらとても助かるのだけれど」


 行く場所どころか、その日眠る場所も土の上だった莉々奈は二つ返事で承諾した。

 ワンもなんだか嬉しそうだし、この世界がどうなっているかを莉々奈はもっと知りたかったし、本当にありがたすぎる申し出だったのだ。


 最初に遭遇した村人たちが野蛮すぎて、正直ちょっと心が折れそうだった莉々奈だったが、ここからまた頑張るぞと心を新たにするのであった。




次回も莉々奈です。

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